蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の一九七一年六月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。 この問題について、日本の外交文書にも「陛下が(中国問題を)心配しておられた」というマイヤー大使に対する佐藤首相の発言が記載されている。昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。しかし、国連代表権は七一年十月、
元衆議院議員の中山正暉氏と元産経新聞記者の今西和貴氏がナビゲートを務めた今回の『やすトラダムス』(12月7日放送/Kiss FM KOBEで毎週日曜24:00-25:00放送)。翌12月8日が太平洋戦争の開戦から73年目となることを受けて、戦前・戦後の日本や世界情勢などについて語った。 第1次世界大戦で「漁父の利」を得た日本 中山(正暉) 12月8日は、今からちょうど73年前に日本が英米に宣戦布告をして太平洋戦争が開戦した日ということで、今回はそれにまつわる話をしたいと思います。 私が小学校3年生の時、朝7時のニュースで「西太平洋方面において米・英軍と戦闘状態に入れり」という大本営発表が放送されました。当時は小学校が国民学校に改称された頃で、学校に行くと校長先生から戦争が始まったことを直接聞かされました。 国会周辺は憲兵隊が銃剣を持って警備にあたるなど物々しい雰囲気で、「これはえらいことに
台湾というと親日のイメージが強いようですが、それだけではありません。「大日本帝国と戦い勝利した栄光の歴史」は中華民国ナショナルヒストリーの重要な一部分。抗日の歴史は台湾ではどのように顕彰されているのか、中国本土とは何が違うのか。犬大将さんがレポートしてくれました。 ■最新の台湾抗日展示を見てきた ここ二週間ほど台湾にいた。帰国する日、土産の鳳梨酥をカルフールで買って台北駅の方へ歩いていくと、途中で中山堂という建物の前を通った。日本時代に清の台湾布政使の役所跡をとりこわして台北の公会堂として建てられたものらしい。 その中山堂の近くに七七がどうこうという展示の幟がたっている。七七といえば盧溝橋事件。あー台湾の抗日展示か。せっかくだから見ていこうかなぐらいの気分だったが、一気にテンションを上げるものが目に入った。 「抗日戰爭勝利暨臺灣光復紀念碑」 (抗日戦争勝利及び台湾復帰記念碑) 中山堂の向い
(米「パシフィックフォーラム CSIS」ニュースレター、2014年42号) By Joseph Bosco 天安門事件が25周年を迎えたことは、中国の独裁政権において変わらないものは何かを私たちに思い出させる。習近平国家主席が追求する「中国の夢」は、中国の人々が自国に対して描いている夢と同じではないということである。 1989年6月4日、何百万人もの中国の学生、労働者、農民、そして知的職業人が、鄧小平の経済開放政策に見合った政治改革を求めて北京やその他の都市に集結した。 凝り固まった考えを持つ共産党の強硬派に勝利した鄧小平の経済政策は、東ヨーロッパと同様に新しい時代の幕開けを中国人に確信させるものであった。また、鄧小平は名実ともに中国の最高指導者であり、全国民が彼とともに次の歴史的第一歩を踏み出す覚悟をしていた。 しかし、共産主義の一党支配に代わるこの考えを受け入れることとなると、鄧小平は
従来、大陸へ渡った台湾人についての研究は抗日運動に従事した点に重きが置かれていた。すなわち、台湾出身だが大陸へ行き、国民党と共に台湾へ戻ってきたいわゆる「半山」が歴史的正統性の観点から高く評価された。他方で、対日協力者、すなわち「漢奸」の疑いがある者については、史料上の制約ばかりでなく、政治的タブーになっていたことから研究が遅れており、本格化したのは1987年に台湾で戒厳令が解除されて以降のことである。 中国大陸へ渡った台湾人の動機を類型化してみると、(1)進学(台湾人が台湾で高等教育を受けられる機会は乏しく、また日本へ留学すると費用がかかるため、大陸や「満洲国」の大学・専門学校へ進むという選択肢があった)、(2)求職、(3)商売(国籍上は「日本人」であった台湾人は、大陸で日本人と同様の特権を享受できた)、(4)日本統治への抵抗(上述の「半山」)、⑤戦時期の徴兵・徴用、といった要因が挙げら
2024.06 << 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 >> 2024.08 米山達雄・分島俊「高砂族の精神医学的研究」『台湾医学会雑誌』vol.40, 臨時号、1941: 1-31. 民族の比較精神病学的な研究は、帝国医学の広がりや、クレペリンが20世紀の初頭に提唱したことなどから、世界各国で実施され、日本でも戦前には盛んであった。もっとも著名なものは1930年代に始められた内村祐之のアイヌの精神病学的研究であり、30年代の後半には台北帝国大学が中心になって高砂族の精神病学研究が行われた。 この調査は昭和13年(1938)から始められたもので、関係警察官署に調査カードを送り、必要事項を記入して返却させたものである。直接精神科医が訪問したものではない。高砂族については徹底した管理の方式がとられていたので、精神病調査を
FB更新. アイヌにはじまり、八丈島、三宅島、五家荘、東京池袋、小諸などのさまざまな地域で実施された精神病一斉調査。戦前で最も野心的なものは、1942年に台湾の高砂族を約4,000人にわたって調査したもの。 最大のポイントは、高砂族(特に対象となったブヌン族)の精神疾患、特に分裂病が著しく少ないことである。精神病一斉調査においては、総じて、未開民族がもっとも罹患率が低く、次いでヨーロッパ人、一番高いのが日本人の順という結果が明らかにされていた。日本の精神病医たちは、その科学的な調査によって、日本人は他民族よりも精神病学的に劣性であるという結果を次々に明らかにしていたことになる。しかも、西欧よりも優れた大東亜の盟主であり、大和民俗の優秀性が絶叫されている時代に。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く