徳川家康も大の能好きとして知られ、関ヶ原の戦いに勝利して天下人になると、秀吉同様に能役者に配当米や所領を与えて能を庇護しました。本記事では家康と能にまつわるエピソードを紹介しながら、家康の能に対する思いや人柄などを紐解いていきます。 秀吉と違い、幼少の頃から能の稽古を受け、実力も見識もあった家康 家康は、少年期に人質として駿府城(現在の静岡県静岡市)の今川氏に預けられていた頃から能に親しみ、観世十郎大夫から稽古を受けていました。 秀吉とは違い、幼少の頃から能の稽古を受けていたことから、能の実力も見識もあったことが伺えます。 浜松城時代の家康には、能の師として観世十郎大夫の弟である七世観世大夫元忠宗節が仕えました。この二人の深い結びつきを示す逸話が伝わっています。 元亀3年(1572)、三方ヶ原の戦いで、武田信玄の軍に攻められ、浜松城に逃げ帰った家康は、兵も城に戻れるように城門を開けます。そ
安土桃山時代、能は多くの有名武将に愛され、室町初期にもまさる盛況を取り戻しました。その牽引役となったのが豊臣秀吉です。 秀吉は熱狂的な能の愛好家で、自身でも好んで能を舞ったほか、室町幕府以来の伝統を受け継ぎ、能役者への扶持米支給など庇護を行いました。 本記事では、秀吉の能への熱中ぶりが伺える逸話や、能楽に与えた影響をご紹介します。 秀吉の能楽への熱中は晩年期から 秀吉が能の稽古を始めた佐賀県唐津市 名護屋城跡。 隣接して建つ佐賀県立名護屋城博物館では日本列島と朝鮮半島の交流の歴史を学習できます 写真提供:佐賀県観光連盟 秀吉が能に傾倒するのは朝鮮出兵で肥前・名護屋(現在の佐賀県 唐津市)にいたときの57歳からと伝えられています。秀吉は文禄2年(1593)、新年のあいさつに名護屋に参上した素人役者・暮松新九郎(くれまつしんくろう)について能の稽古を始めます。能を習い始めた理由は、能と縁が深か
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社刊)が、国立競技場駅A2出口に出没。都営地下鉄大江戸線は同書で舞台とされる六本木駅〜国立競技場駅〜都庁前駅をつなぐ。 書籍情報はこちら 岡田利規[photo © Kikuko Usuyama] 能はアレルゲンフリーの演劇だから 世の中には、演劇アレルギーの人、というのがいる。実のところ、かなりたくさんいる。もしかしたら、花粉症患者と同じくらいの数、いるのではなかろうか。 演劇アレルギーの人は、演劇の演技の噓くささや、わざとらしさに、敏感に反応する。そうしたものに触れると違和感でムズムズしてきて、耐えられなくなってしまうのである。 わたしは演劇を作る人間だけれども、演劇アレルギーの人たちのそうした心情は、とてもよくわかる。わたしもどちらかというと演劇アレルギーだからだ。 岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』(白水社)P.54─55 本文書体
能ときくと、ゆっくりした動き、低くうなる声などを想像してしまう。だが、しかし! 足利義満や世阿弥の時代、能のテンポは今の2~3倍速かったという衝撃の研究があるらしい。 なぜ今の能は遅くなったのか? さっそく研究者に聞いてみよう。お話を伺ったのは、早稲田大学演劇博物館顧問・早稲田大学名誉教授の竹本幹夫先生。秀吉の時代の資料を集め、当時の速いテンポとメロディーの能を復元した経験がある先生だ。 尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。「給湯流」と表記させていただく。 「演技がノロすぎる!」と徳川幕府に通報され、出禁になった能楽師もいた? 給湯流茶道(以下、給湯流):今の能に比べて、世阿弥のころの能は2~3倍の速さで演じられたと聞いたことがあります。しかし、映像データが残っていない室町時代のことをどうやって調べているのでしょうか? 竹本幹夫先生(以下、竹
研究所の蔵書のうち、文庫名を冠しているものには以下のようなものがあります。 このほかにも、まとまった蔵書として、井上次郎右衛門家旧蔵資料、小鼓山崎家旧蔵資料、笹野堅氏旧蔵資料、幣原家旧蔵資料、横道萬里雄氏旧蔵寺事関係図書などが挙げられます。 鴻山文庫(こうざんぶんこ) 江島伊兵衛氏旧蔵書。1976年設立。 本文庫は、江島氏が戦前から長年にわたって蒐集した室町時代から近現代までの能楽関連資料からなり、「江島」の二字を合体し「鴻山文庫」と命名し、1935年江島氏自宅に創設した。江島氏逝去後、翌年1976年4月に御遺族より法政大学に寄贈され、翌1977年夏に本学の能楽研究所(当時の麻布校舎)に「法政大学鴻山文庫」として移管された。現在本研究所が保管している。 本文庫は、謡本・伝書・注釈書・演出資料などの能楽関連資料、約一万点からなる。能楽のあらゆる文献を網羅しており、質・量ともにこの分野で本文庫
インタビュー3 能のテキストを読み、舞台に立ち上げて見えてくること──原点としての「橋の会」第1期(1980-82) 松岡心平(東京大学名誉教授) 「橋の会」のはじまり ──まずは、松岡先生がどういうきっかけで能の舞台の現場に関わるようになったのか、というお話からお伺いしたいと思います。 私が能楽舞台の現場と関わるようになったのは、「橋の会」の運営委員になったことがきっかけでした。そのきっかけはほとんど偶然みたいなもので、荻原逹子さんという有名なプロデューサーで銕仙会の事務局長のようなことをやっていた方が、観世寿夫亡き後、どういう活動をしていったらいいかということを模索するなかで、「若い人を集めて何かやろうじゃないの」という話になり、4人のメンバーを集めたんです。その4人というのが、土屋惠一郎さん、松本小四郎さん、鴻英良さん、そして私でした。どういうわけかよくわかりませんが、どうも荻原さん
『観世文庫所蔵能楽資料解題目録』(監修 観世清和、編集代表 松岡心平、編集 横山太郎・高橋悠介)は、世阿弥自筆本をはじめ、600年以上にわたって観世家が蓄積してきた約4500点にのぼる資料を、謡本/伝書・注釈等/付/史料/狂言/その他に分類・配列しその全貌を示した目録である。18年間のべ35名による観世文庫調査プロジェクトの成果を結集させて、このたびようやく完成を迎えた。 本書は単なる文献リストではない。詳しい解題を備えた「読む目録」である。最新の研究的知見を盛り込んで、文献の概要や他資料との関連を明らかにし、場合により本文を翻刻し人物や出来事を考証した。768頁というボリュームの所以である。 観世文庫の資料は、観世流史を超えた豊饒な研究資源であり、本書はその案内役となるはずだ。謡本の使用実態、能役者の学問、幕府との関係、能楽社会の実像、技芸伝授の様相といった新たな能楽研究の可能性を開くだ
少女マンガ界を牽引する成田美名子先生の画業40周年を記念し、原画展が東京・銀座で開催された。成田先生自らが選りすぐった原画40点は全てカラー。淡く繊細なタッチの中にも、凛とした空気を感じさせる成田先生の魅惑のイラストが紹介される原画展は、ファン必見のイベントだったのではないだろうか。 またもう一つ、特別な企画が開催された。 『花よりも花の如く』(白泉社)が、能をテーマにした物語であることから、作中で主人公が舞った曲を演目とした「花花能」が催されたのだ。 本作は成田先生の作品の中でも、連載15年と長きにわたり愛されている作品。若き能楽師の榊原憲人(さかきばら・のりと。通称:けんと)が、演者として、人として成長していく人間ドラマである。 2月11日から13日の3日間にかけて行われた「花花能」は、まるで憲人が舞台に立っているような、マンガの中の世界が現実になったかのような、特別感にあふれた公演と
あらすじ 筑紫の旅僧が須磨の浦で平知章の墓に行きあたり供養をしていると、男が忽然と現われます。男は知章の父知盛と井の上黒という名の愛馬の話をし、姿を消しました。知章の話を里人から聞いた僧が供養を行うと、甲冑姿の知章の幽霊が出現します。霊は、子を失った知盛の悲しみや自らの最期の様子を語り、さらなる供養を頼み消え失せました。 舞台の流れ 囃子方が橋掛リから能舞台に登場し、地謡は切戸口から登場して、それぞれ所定の位置に座ります。 「次第」の囃子で、旅の僧(ワキ)と彼のお供をする僧たち(ワキツレ)が登場します。 春、西国の僧が都を目指して、船で海に漕ぎ出し、摂津の国「浦なる関」、須磨の関にたどり着きました。 僧たちは磯辺に上がると、「亡き平知章」と書かれた、新しい卒都婆を見つけます。 僧たちの前に、須磨の里の男(前シテ)が忽然と現れます。 男は、知章は平清盛の三男、新中納言知盛の息子で、二月七日、
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