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      夢というのは、まだ現実化していない空想で、頭の中に存在している。これは「想像」という現象をどう捉えるかと言うことでその理解が変わってくる。僕の尊敬する三浦つとむさんは、「観念的な二重化という言葉で「想像」を捉えていた。「想像」は、「現実」の世界と「想像」の世界と、世界が「二重化」するところに本質を見ていた。 この世界の「二重化」は自分自身の「二重化」ももたらす。現実の自分と、「想像」の中の観念的な自分と、自分が「二重化」する。これを「観念的な自己分裂」と呼んでいたように記憶している。 さてこの二重化した世界を見ていると、現実の自分の他に、未来のあるべき姿の自分というのを見ていることになる。ここに夢が自分を駆動するエネルギーとして働く根拠を見出すことが出来る。安冨さんは、夢としての想像は具体的に見る必要があると書いている。 具体的に見ている夢は、二重化した世界でも生き生きと躍動しているだろう
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      第3章では安冨さんは愛について語っている。この章では、安冨さんの言葉の定義の巧みさに最も印象づけられた。安冨さんは、「名を正す」と言うことで、言葉を正しく使うことが真実への道であることを語ってもいるが、それをこの省では見事に実践している。愛という言葉の本当の意味を語ることで、愛という言葉の名を正している。 安冨さんは、愛を「自愛」と定義づけている。これとよく似たものに「自己愛」というものがある。両者の違いは、「執着」という言葉で語られる。「自己愛」は「執着」から発する。「自愛」には「執着」はない。むしろ執着を否定することによって自愛を獲得する。執着するのは、それが自分に足りないのを悪と感じて認められないからだ。自分をありのままに認めることが出来れば、執着を離れ、自分を本当に愛することが出来る。自分を大事にすることが出来る。 この自己愛とともに提出される概念が「自己嫌悪」だが、この定義に僕は

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