というわけで昨日はKY症候群についての同時代の賢者たちの知見をご紹介したわけだけれど、読むにつけ、これはなかなか哲学的な拡がりをもった主題であるということが私にもわかってきた。 鈴木晶先生が書かれている中で私がいちばん興味深かったのは次の箇所である。 どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。 この種のゲームは無数に存在する。 けれどもこのようなゲームが好まれる集... > このページを見る
最終更新時間:
2008年01月06日11時48分
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- 自分の価値観の肯定しているのは自分自身以外にいない、ということ
- 空気
- KY考
- コメント欄より『「KY」は自分の見ているゲーム範囲外を想像出来ない人間が、そのゲーム範囲外の振る舞いをする人間を馬鹿にするゲーム』
- 「KY」をめぐって。|真理よりももっと大切な知識ということになると、こいつは常に表面的なものだとぼくは信じる|(『モルグ街の殺人』)
- 「親疎の差があるだけでメンバーが固定されていて、他にすることがない」ときにしか始まらない
- 「集団のインサイダーでありたい」という欲望が強ければ強い人ほどこのゲームに簡単に負ける。
- > 自分は自分がテンポラリーに帰属しているある集団のルール(正確に言えば、この集団では何を以て記号として認知しているのかの規則)をまだよくわかっていないという控えめな立場をとっている人の方がゲームのルー
- メタルールは自分の手に負えないことが分かって、また内側に戻ってくる人もいると思うんだけどね~
- 真理より大切な知識は、「私は何を以て『真偽』を判定しているのか。その基準の正当性を私自身は基礎づけることができるか?」つまり自分の知性の「不調」についての知識のことである。という「心理」が興味深い。









