卒業式。 本学の学院標語のもとになった聖書マタイ伝の聖句を入学式、卒業式とあわせて16回拝読してきたが、これが最後。 不思議なもので、クリスチャンではない私でも聖書の同一箇所を4年にわたり16回も朗朗と読み上げていると、聖句の深みが身にしみてくる。 けだし儀礼の効用というべきか。 マタイ伝22章34節から40節とは次のような聖句である。 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言いこめられたと聞いて一緒に集まった。その中のひとり、律法の専門家が、イエスをためそうとしてたずねた。「先生、律法の中で、... > このページを見る
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2009年03月19日13時47分
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- "人を愛することが、「だいたい10人中7人くらいについてはできる」ようになったら、その人は「自分を愛する」境地に近づいたと申し上げてよろしいだろう"
- これはすごいかも。
- 自分だけじゃないってことが改めてわかった。
- "自分を愛することができない人間が「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるであろうか。"
- 殺された自分が本当の自分。殺した自分は社会の手先。
- 自己嫌悪はしない。自己批判はしたい。
- life
- あまやかすけどあいしてない
- ”「私は私によって愛されるに足るほどの人間ではない」という自己評価の低さによって私たちは競争に勝ち、階層をはいのぼり、リソースを貯め込むようになる。”
- 自己評価の低さと自分が嫌いは違う。この妄想の根拠は何?>"人に好かれなかった以上に、彼は「自分が嫌い」だったのである。"/他人に嫌われても、自分が好きという人はいくらでもいる。誰かに嫌われる覚悟は必要だろ
- 言及してみた っhttp://tinyurl.com/d9f26d
- 「愛神愛隣」のみを語り、「愛己」については言及していない。
- 神と隣人を愛せても自分を愛することは不可能…?自愛し己の足るを知りながら、向上心を持つことは難しい…のか?生産者にとっては禁欲が必要で、消費者には欲望が必要。自愛と自己嫌悪の往復で資本主義は回ってる、
- 自分を愛したい、というか許したい。なかなか難しい。
- 『彼がこれほどメディアで叩かれながら、少しもひるまないのは、どんなメディアの記者も「麻生太郎が嫌い」という点において麻生太郎に及ばないからである』/おれはおれ以外のもの全てを愛しているなあ、根源的には
- 愛する、というのは「感情」というよりはむしろ「意思」に拠るのだと思う。あるいは「決意」かな。
- 自分を愛すること
- 自分を愛せずに本気で誰かを愛せるの?と言う歌があったなぁ。/自分も隣人も世界も、普通に愛してる。正面きって言われたから怯んでるだけで、皆結構そうなんじゃないかと個人的には思ってる。
- イエスいいこと言うじゃん
- なかなかむずかしい.しにたい.









