『日本辺境論』の書評がだいぶ前の「赤旗」に出ていた(昨日、アダチさんがファックスしてくれた)。 いろいろな媒体に取り上げられたけれど、「赤旗」とはね・・・ 代々木の(けっこう)えらい党員知識人であるところのワルモノ先生と共著で『若者よ、マルクスを読もう!』(仮題)を執筆中であることは党本部のすでに知るところであろうから、「ウチダ本は代々木的にはOK」というご判断がくだったのかも知れない。 私は右も左もなく、頼まれればほいほい寄稿する。 国民協会でも(ボツになっちゃったけど)、『第三文明』でも、『月刊・社民... > このページを見る
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2010年02月20日10時22分
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"出口なし (内田樹の研究室)"
- 人間の知性は定型に飽きるところからしか始まらない。 自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪からしか始まらない。 そこからしか「外部にある精神」に「触れたい」という志向は生まれない。
- 知は一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の手段である
- "「『この十字架を負って生きる』というのは、どういうふうにすればいいんですか?」と訊く人に向かって、「あのね、人に訊かずに、自分で何とかすることを『十字架を負う』っていうの」と申し上げた"( ..)φメモメモ
- タイトルに釣られた…。/「私は人間が「どんなことがあっても主観的には合理的に生きようとする」その努力を「可憐」だと思うのである。」可憐なのか、可憐っっ。
- ウチダ先生は、今回みたいに「日本はこのままでいい」という時と、(とくに教育問題なんかに関して)「このままじゃダメだ」という時と、両方あるんだよね。本音はどっちなんだろ。
- 人はその時代の文脈やイデオロギーから自由にはなれない。ただ、そういう時代の文脈やお約束の世界の中で暮らしているという意識を持つことはできる。『人間は自由であるときにこそ、その宿命を知る』甲野善紀
- 「人間の知性は定型に飽きるところからしか始まらない。 自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪からしか始まらない。 そこからしか「外部にある精神」に「触れたい」という志向は生まれない。」
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辺境的、ガラパゴス。/ 出口なし (内田樹の研究室):
- 「私は人間が「どんな事があっても主観的には合理的に生きようとする」その努力を可憐だと思う」「(日本人の)「世界標準に合わせて『まとも』になろう」という発想そのものが辺境的」「人間の知性は定型に飽きる」
- 内田先生お得意の無限ループ/「人々が固有の政治イデオロギーを奉ずるに至るには、余人には窺い知れぬ個人的ご事情というものがあって、それはやはりできる限り配慮せねばならない」
- 辺境人が辺境人に出会った辺境のワン・カット。しかしだ、世界は辺境に分裂しかけ?中国もあと10年だしね。
- 「ウチダ本は代々木的にはOK」
- 『日本辺境論』の主論は「私は私でいい」か?レヴィナス先生の言葉は身に沁みるけど、互いの相反する利益がぶつかったときはどう解決するんだろう?
- 「人間の知性は定型に飽きるところからしか始まらない。」/たしかに、兼坂弘も「退屈峠に登りつかないと、新しい地平は見えてこない」と言っておったわ。
- 『辺境民は無反省的に辺境的であることによって辺境的であり、辺境的でなくなろうとじたばたするによって辺境的である。 「辺境民に出口はない」のである。』
- で、そういう定型化した人たちの相手はしたくないという結論がないというのには疑問を持つ。
- 「「世界標準に合わせて『まとも』になろう」という発想そのものが徹底的に辺境的である」という発想そのものが辺境的とか言い出すと無限ループになるな。おお、まさに「出口なし」。ハラショー!
- >私は人間が「どんなことがあっても主観的には合理的に生きようとする」その努力を「可憐」だと思うのである。>うむうむ
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日本人の発想の辺境性を認識した上でそれを肯定するという内田の論理展開はそもそも自らの言葉の持つ辺境性を把握していない人間には通用しないという理解である。まさに出口なし。









