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会話術
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「おたく」を理解しようとすると「新人類」を理解せねばならず、「新人類」を理解しようとすると「神々」を理解しなければならない、どうもそうなようだ。 そして、「神々」のなかでも、その連載(筑紫哲也が「朝日ジャーナル」で行った)のトップバッター「浅田彰」が誰よりも重要だろう。そして、なかでも「スキゾ」ないし「スキゾ・キッズ」とは誰だったのか、ということを知ることは、目下このノートのもっとも興味のそそられる事柄だ。 どんなに捜しても『逃走論』(1984)が自宅の本棚から出てこないので(研究室だ!)、さしあたり『構造と力』と『若者たちの神々』を紐解いていこう。まず『構造と力』より。 「ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」
『サブカル真論』(ウェイツ 2005)は、2004年に行われたトークイベントを基に翌年に出版された。そのなかに宮台真司と中森明夫と宮崎哲弥の鼎談が収録されている。80年代が生んだ「サブカルチャー」が00年代に停滞しているのは何故かをめぐって、宮台と中森が興味深い議論を展開している。80年代文化論にとって、必須の文献である。 細かい解説を加えるときりがないので、さしあたり、重要な発言を引用しておく。 「宮台 一口でいうと、差別語としての「サブカル系」とは、実は「自意識系」の別名なのね。サブカル趣味が、ある種の痛々しさの自己表明みたいに受け取られていたんです。サブカル系ということで、『エヴァンゲリオン』の碇シンジ扱いされてしまうんですよ」(p. 157) 「宮台 九〇年代前半に大月隆寛がよく言ってたでしょ。「どこかでうまいことをやっているやつがいるという八〇年代的感覚」と。正確には八〇年代後半
昨日まで、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに行ってました。自然とアートの関係、村おこしとアートの関係、田舎と都市の関係などいろいろと考えさせられるやっぱり見るべき展覧会でした。 さて、また再開して、こつこつとノート作り進めていきます。 『おたくの本』でも取り上げられていた80年代のおたく批評の重要人物といっていいだろう富沢雅彦。彼の見解を理解しようとするのに『美少女症候群』(ふゅーじょんぷろだくと 1985年)は格好の素材、相当に読み応えのあるテクストが収められている。本書は、ロリコン同人誌のなかで代表的なマンガ・イラストを富沢の編集のもとでピック・アップしたものであり、全10章で各章の冒頭には、編者・富沢のコメントが600字程度添えられている。目次は以下の通り。 第1章 ロリコンその世界 第2章 猟奇天国、少女の地獄 第3章 10万本の触手 第4章 メカフェチたちの饗宴 第5章
宝泉薫+ファッシネイション編『歌謡曲という快楽』(彩流社、2002年)という本が昨日届く。 これは、七〇年代末から九〇年代の初頭まで刊行されていた雑誌『よい子の歌謡曲』のアンソロジー。『よい子』とは、いわゆる「ミニコミ誌」「投稿誌」で、最大部数は六千部。ぼくは、恥ずかしながら最近になって知った。 「もう黙っちゃいられない。歌謡曲を語るのは、本来歌謡曲が大好きな僕たち歌謡曲ファンがやるべきことだ。さあ、場所は出来た。後は君が集まってくるだけだ」(p. 10) というのが創刊の辞。ファンが書き手となって誌面を構成する批評誌というのが『よい子』ということらしい。一般的に見て、まさに歌謡曲全盛の時代に、歌謡曲が好きな自分っていったい何だろうことを、フォークやニューミュージックを仮想敵としながら展開した文章が目立つ。例えば、 「とにかく、メジャー志向のフォーク歌手は「やさしさ」とか「思いやり」とか、
身体の脱セックス化かあるいは新しいセックスの発明か。 美容室は、ファッション誌を読むのによい機会として認識している。最近行ったら、何とか言う(『クリオ』だったかな?)雑誌で、伊藤キムが島田雅彦にダンスを教えていた。アシスタントの女性二人に抱きしめられてそこから抜ける、するとそこに自分の抜け殻ができあがるというワークショップで伊藤氏が普段行っているものと予想されるアイディアを島田が体験していた。そのときの島田は、女の人に突然抱きつかれることに困惑しながら(恐らく)紅潮した頬でもって感想を漏らしていた。詳しいことは失念したが、新しいセックスのようだ、と言っていたように思う。 こういったコンテンポラリー・ダンス的身体への取り組みやコンタクト・インプロがもっている大きな特徴として、身体をニュートラルにするということがある。ぼくは正直かねてからこれに疑問をもっている。あ、時間が。また夜。 かねてから
下に、DC2に関する新しい記事を書いたばかりですが、備忘録として。 ちょっと前の宮沢章夫「富士日記2.1」に、学生のレポートのことがあった。ぼくも2つの大学で7月の末から8月にかけて採点をしていた。400人分のレポートとかテストとかに目を通して、宮沢さんとほぼ同じ経験をした。ぼくの場合は、なんとぼくのHPからまるまるコピペした輩が出た。頭と尻尾にちょっとコメントしているのだが、それもほとんど内容に触れておらず、しかもその内容の部分で引用先がまったく記載されていなかった。つまり、その学生は自分が書いたことにしていたのだった。「それ、書いたの俺だよ」って言ってやりたいが、もう講義は終わってしまった。ホガースという美術家が書いた美術理論書にダンスのことが書いてあって、という非常にマイナーだがぼくにとっては大事なポイントについてメモしたもので、でもまさか学生がホガースのダンス論のことなどひとりで思
最近読んだ2冊の本で「リアル」や「純粋」という語彙が論じられていて、それがとても興味深かったので、ごく簡単に整理してみようかと思う。 速水健朗『ケータイ小説的。』(原書房)は、副題に「再ヤンキー化時代の少女たち」とあるように、ヤンキー的なマインドの今日的展開を「ケータイ小説」の分析を通して明らかにしている。「ヤンキー」への眼差しという点がまず、ぼくとしてはとても気になっていて、以前からここでも書いていたことだけれど、サブカル系批評やオタク系批評はあるのに、なぜヤンキー系批評はないの?と以前から思っていたので、その興味からこの本を読み始めた。面白いポイントいくつもあるけれど、何より「リアル系」というキーワードが図抜けて面白かった。 「ケータイ小説を巡る言説で必ず問題とされるキーワードに「リアル」もしくは「リアリティ」がある。『文學界』二〇〇八年」一月号における座談会「ケータイ小説は『作家』を
これから以下の著作の翻訳とそれについての解釈や解説を「研究ノート」として当ブログに連載していくことにしました。最初は、体裁が悪いと思いますが、徐々に読みやすくしていきます(予定)。この本(『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』)は、ポスト・モダンダンスとりわけジャドソン・ダンス・シアターに関わる研究書としては最新のものであり、『エイリアン身体』や『男性ダンサー』などダンスを今日的に理解する上で重要な研究書を立て続けに書いているラムゼイ・バートの最新刊でもあります。 第3章 ミニマリズム、理論、ダンスする身体 (1)「序 (見出しなし)」 (2)「シモーネ・フォルティとロバート・モリス」1(フォルティ) (2)「シモーネ・フォルティとロバート・モリス」2(モリス) (3)「トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーの初期作品」1(ブラウン) (3)「トリシャ・ブラウンとイヴォ
の二組を見た聴いた。(一度書いたら、訳分からず消えてしまい、再度書いてみた関係上、ノリが悪い文です、はい。なんかもうちょっとうまく書けてたのだった、のに残念) 前者は、まず、キャップにキツネみたいなぬいぐるみの端切れを二つつけた長靴姿の小川が、サンプラー、ポータブル・レコードプレイヤー、音の出る洗面所のおままごとおもちゃなどにまじって、何かが入ったゴミ袋や段ボールなどをこすったり、揺らしたりして音を出す、そこに狩生がドラムマシーンをいじって応戦、といった感じ。低い椅子に機材などを置いて、見えるような見えないような感じでプレイし続ける小川は、小動物(リス)みたいなたたずまいで、冒頭いきなりツメを切る(?)など、不可解で意味不明な所作を、連続的に脈絡なしに連ねていく。対して狩生は、アフタートークで話していたように、小川にどう対抗すればよいのかとっかかりを見出すことが出来ぬまま、あたふたと現状を
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