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おみそ汁
d.hatena.ne.jp/king-biscuit
*1 団塊の世代の、特にプチインテリ層 (関川夏央ならば「知的大衆」と呼ぶかも知れません) 特有の世界観や価値観、というのは、そろそろまともに、言葉本来の意味での「歴史」的な文脈での考察対象にしておいた方がいいと思われます。 単なる「サヨク」だの「リベラル」だのとひとくくりにしているだけでは、どうしてそのような発想に落ち込んでゆくのか、その仕組みが見えないままだし、何より現われだけを軽侮して終わってしまいます。 ブロガーなどにわかりやすく見られますが、やはり何というか、「サヨク」「リベラル」系のもの言いや発想、価値観などが、すでにあらかじめプラスの評価として固定されている、そんな代物です。 それは言葉によって表明される思想や信条、ものの見方や考え方などに自分も同調する、という次元の手前で、そういう言葉によって何ものかを表明すること、それ自体にあこがれて発情してしまっている自分がいる、という
● かのホリエモン=堀江貴文と、じかに話したことは数回しかない。それも記者会見だの何だのの火事場状態での立ち話程度。だもんで、あちらはこっちをちゃんと固有名詞として認識してはいないだろう。 地方競馬参入がらみの案件で、あの乙部のおねえちゃんに「これってあなたが詳しいんでしょ、だったらあなたがやってよ」と、いきなり言い渡され、わずか二時間でこさえさせられたプレスリリースを記者会見で社長のやっこさん、いきなり読むはめになって、きっと掛け値なしの付け焼き刃だったにも関わらず、その場の意地の悪い新聞記者連の質問に対してもそんなにポイントをはずさずこなしてのけたのを、こちとら会見場の後ろから眺めていて、ああ、やっぱりアタマはいいんだな、と改めて思ったものだが、それでも、正式な取材等を含めて、膝つき合わせて親しく話したことはない。ないまま、ついにやっこさんはいま、拘置所の中の人、である。 ただ、ホリエ
*1松本竜介が逝った。享年四九歳。脳溢血で倒れて一週間ほど。あっけない死だった。いまのお笑いブームではない、かつてのMANZAIブームの頃の紳介・竜介のはじけ方を同時代で見知っている者にとっては、やはりある種の感慨がある。 漫才コンビ紳・竜の当時の姿は、逝去を機にいろいろ放映もされるだろう。だが、芸人松本竜介の本領を垣間見るには、映画『ガキ帝国』(八一年)がベスト。「在日」を等身大で描こうとした、当時としては型破りのフィルムだ。去年、『パッチギ!』で日本アカデミー賞受賞、ようやく本業が陽の目を見たとは言え、近年は単なる辛口コメンテーター化していて、世間の多くはガラの悪い関西弁のヒゲのおっちゃんとしか見ていないだろう井筒和幸監督の、おそらく映画人として最も勢いがあった頃の一本。六〇年代末、大阪の「在日」高校生を中心にした、後の井筒節の原点とも言える青春活劇。紳介もただのツッパリの地金丸出しで
世の中にはあらかじめ隠されているものがある。少なくとも、そう信じている人がいる。どうやら、通常思われているよりも結構な割合でいるらしい。 そのあらかじめ隠されているものとは、たいていの場合はカネとオンナにまつわっている。そこから先は、地球規模の悪の組織、フリーメーソン、謎の宇宙人、はたまた邪悪な宗教団体、何であれふだんは目に見えないけれども何かそういう大きな悪意と陰謀とが実は世の中の裏側にはうごめいていて、目の前に起こっているできごとを背後で操っている……とまあ、こういう類の世界観は多かれ少なかれ世の中に埋め込まれている。 マスコミだジャーナリズムだ、と偉そうにしていても、「裏に何かがある」という前提で目に見える事象の向こう側を懸命に掘り出そうとするのが仕事。とりわけ、いつものルーティンでは説明できないこと、理屈でおさえこめないものが眼前に現われた時、人はそれを何とか意味づけようと七転八倒
「論文」という形式がある。いや、あるのはそんなもの知ってるしそれがどうした、なんだが、近年どうにも納得いかないのはその形式に対する忠誠心みたいなものをなんでそこまで要求されにゃならんのだろう、ということだったりする。まあ、一般的に言えば、「科学」の二文字に対する忠誠心と置き換えられるようなもの、では本来あるんだろうが、ただ同時にそれは、自然科学とそれに準じる約束ごとに対する信心深さに裏打ちされた忠誠心の身振り、でもあるわけで、日本語を母語とする環境でのいわゆる「人文系」にとってそれはさて、どれほどの重さを持ち得るのか、そのあたりのことが正直、まるでわからんまんまの30年あまり、ではあるのだからして。 「書く」という営み、書いて文章して何ごとかを表現するということと、その「論文」という形式の関係、もっと言えばその形式が必然的に要求してくる言葉やもの言い、文体などに至るまでの約束ごとのあれこれ
仕事がらみで、妊娠・出産関係の本や雑誌を読むことが少なくない。少なくないと感じるほど、たくさん出ているということだろう。 それらは、個々の持ち味によってというよりも、どうやら子供を産むという体験についての報告本、予習本、マニュアル本として読まれているらしい。なるほど、それはよくわかるし、その意義も十分認める。妊娠・出産にしても、あるいはセックスや“死”にしても、もはや「そういうものだから」「みんなやってきたことだから」というだけでわけのわからないままに受け入れることを、誰しも納得しなくなっている。その程度にこの国の人間は面倒なものになっているし、何より、「豊かさ」とはそういう面倒なものを前向きに抱えこむ度量を持つことでもあるはずだ。 しかし、だ。個々の本にもやはり質がある。水準がある。芸のあるなしだって当たり前にある。まして、世に流布される書物としては、いくらなんでもあんたこりゃないだろ、
葬式はなくなるのかも知れない、と最近、思い始めています。それも割と本気で。 何をバカな、人間生きている限り死ぬのは必定、古今東西あらゆる文明、文化において「死」を何らかの形式で意味づけたり、またそのことで生きてる者たちの側に「あきらめ」を意識させる、そういう儀礼や儀式の伝統を持たない民族は存在してこなかった、だから今後も形は変われど葬式そのものがなくなるはずがない――ざっとこんなことを不満げにおっしゃる向きも少なくないでしょう。 リクツとしてはわかる。というか、リクツの次元ではそりゃそうでしょう、とりあえず。でも、その「形は変われど」というところが問題で、いまのこのニッポンでこれから先どんな「形」が葬式に与えられてゆくのか、そのことについての想像力がすでにいまのわれわれには枯渇してしまってるかも知れない、そういう恐れはさて、感じないでしょうか。 たとえば、同じ冠婚葬祭仲間の結婚式などは、す
*1 Donald A. Messerschmidt On anthropology“at home” In Anthropologist at Home in North America : Methods and Issues in the Study of One's Own Society. Edited by Donald A. Messerschmidt Cambridge University Press, 1981*2 ● これまで、通過儀礼を正しく理解することは、われわれがその中で社会的にしつけられてきた居心地の良いねぐらを敢えて後にし、異なる土地における、あるいは少なくともわれわれ自身とは異なる人々の間での調査研究の試練と苦難に立ち向かうために、駆け出しの人類学者――マーガレット・ミードがかつて見下すように言及してみせたような「赤ん坊の人類学者」――にとって不可欠なもの
「聞き書き」は、民俗学の主要な手法のひとつとして認識されてきた。それは近年「インタビュー」や「取材」なども含めて、オーラルヒストリーやエスノグラフィーなど、人文・社会科学系の分野での「質的研究」領域の進展と共に改めて注目されている。その「聞き書き」が、民俗学における本来の意味や趣旨と異なり、過剰に「難しい」ものとして語られるようになっていったのはなぜなのか。方法的な自省のための前提についての考察を試みた。 ●はじめに 近年、人文・社会科学系の分野でオーラルヒストリーやエスノグラフィー、あるいはいわゆる「質的研究」が注目されてくるにつれ、「聞き書き」もまた、これまでと違った照明の当てられ方をしてきています。「インタビュー」や「取材」といった派生的なもの言いも含めて、いわゆる「聞き書き」という方法自体についての自省的言及も、それらを使い回す立場の研究者などの当事者から盛んになってきている。むし
最近、こんなことがありました。 ゼミの学生、いまどきのこととてデキはよろしくないけれども、まあ真面目で、ちと堅すぎるくらいもの堅い性格の男の子、仲間とのつきあいすらぎくしゃくするようなところのままある、まあ、いわゆる「コミュ障」と昨今言われるような部類の御仁。そんな彼がこのご時世、厳しい就職戦線を何とか突破し、昨今「ブラック企業」の代表と世上取りざたされている某外食産業にこの春、就職しました。首都圏に配属されたと聞いていたので、同じく東京近辺に就職したゼミの仲間に、機会があったらそれとなく様子を教えてくれ、と言っていたところ、先日連絡をとりあってちょっと呑んだという若い衆から連絡がありました。 「いやあ、びっくりしました」というのがその第一声。 「あいつ、まともになってましたよ」。 最初は新人研修、それもああいう会社なもんで例の「地獄の特訓」系の厳しいのを一ヶ月ばかりやられて、その後現場の
永沢光雄が亡くなりました。 それって誰? という向きには、『AV女優』の著者、とだけ言っておきましょう。いや、言っておきましょう、ったって、正味のハナシがほんとにそれだけ、としか言いようのないようなもの、なんですが。 『AV女優』というのは、『ビデオザワールド』誌その他に連載されていた、AV女優のインタヴューをまとめた一冊。版元の白夜書房も、それが単なるエロ出版社であり、そしてその「エロ」とは今みたいにお手軽なシロモノでもなく、それ自体がある種のサブカルチュア、言葉本来の意味でのブンカ創造の触媒になり得た状況での、誇りあるろくでなしたちの梁山泊だったりもした時期の、象徴的な仕事ではありました。 『AV女優』は、今じゃ文春文庫だかにおさめられているバージョンしか入手できないようですが、もとはビレッジセンター出版局から単行本として出したもの。 http://www.villagecenter.
笹井はノーベル賞候補とさえ言われた人物です。彼のES細胞は、生体から卵子を取り出さなければならず、倫理問題から人体への転用ができな くなりました。そこにiPSが登場し、ノーベル賞をかっさらったという流れです。それでも笹井はエリートですし、収入もあるし、地位も名誉も あります。嫉妬に狂って「小保方事件」のようなことを起こすものなのでしょうか? 現に起こしてるじゃないですか( ^ω^) 人間、それがたとえどんなにチンケなものでも「プライド」で生きてるようで、特にオトコはそれ失ったたらアウトなイキモノ、と昔からよくオンナからもバカにされてきましたよね。収入あって不自由なく喰えてそれなりの地位も名誉もあって何が不足?というのは世間的ものさしからすりゃ当然ですが、いわゆる「学者」「研究者」特に理系最先端でそれこそ世界的規模での「競争」があたりまえの世界にずっと生きてきてる人がたの「プライド」のねじ曲
● 名前を言えば大方が聞いたことくらいはあるはずの、牛丼の大手チェーンのひとつ。そこに属する店がこのところ、あちこち閉店しているというのでweb上から噂になりました。聞けば、店員たちが軒並み辞めて人手が足りずまわらなくなっているのだという。 例によって真偽不明、口さがないweb住民たちの噂話ですが、昨今はその当の店員アルバイトたちが自ら「証言」がいくらでもできる情報環境。もちろんそれとて真偽不明ではあるのですが、それでも数がそれなりに出揃うと無碍に否定できない程度の本当らしさは宿ってくるわけで、ことの「真相」は表のメディアに出てくる以前に、いやだからこそ「表沙汰にならない本当らしさ」をまといつつ静かに共有されるおはなしになってゆき、そうこうするうち表のニュースとしても報道されるまでに広まってゆきました。 何でも、最近新たに導入したメニューがきっかけで、店員といってもほとんどがアルバイトない
知識人や《文化》人は(どういう理由からか)日常生活は低俗なものしか提供できないと頭から固く信じている。このような確信は、あらゆる非形而上学的生活を陳腐なもの、公認されないものとして投げ捨ててしまういわゆる《実存》哲学においては、重要な役割を演じてさえいるのだ。日常生活の研究は、秘密の人、内的生活の人、神秘の人も、陳腐な日常生活を持っていることを明らかにする。」※1 ● はじめに 明治期以降の近代化/西欧化の過程で、近代以前の生活文化のディテールを糸口に「歴史」を回復し、それを足場に「未来を選択する」ための国民的データベースを構築することが、柳田國男の構想した日本の民俗学の初発の目的でした。そのように回復され再編成された「歴史」を媒介にしつつ、大衆社会状況の進行する国民国家における有効な、新たな国民統合への願い――柳田自身の言葉によれば「良き選挙民の育成」が、「運動」としての民俗学の過程には
前略 小林よしのり様 お元気ですか? 思えばずいぶんご無沙汰しています。「あたらしい歴史教科書をつくる会」でご一緒していた頃から数えれば、もうそれなりの年月がたってしまいました。 その後、お変わりなくご活躍のご様子……と、まあ、型通りの挨拶くらいはしておきたいところですが、本業のマンガ「ゴーマニズム宣言」は言わずもがな、その他、責任編集の雑誌「わしズム」や、「朝まで生テレビ」その他のテレビ番組などで流される小林さんの時事的、論壇的な発言、コメントなども含めて、いまは単なる読者=ひとりの「良き観客」としてそれら一連の仕事を遠目ながら拝見している限りでも、あたしの見知っていた頃の小林さんと比べて、いろいろとまあ、お変わりがあるようですね。男子三日会わざれば刮目して見よ、とか。小林さんからの電話を最後に「つくる会」を事実上粛清、追放されて以来、その後実際に会うことはないままですが、もしも仮にいま
マンガを読めない学生若い衆が増えている。そう言うと、ぽかん、とした顔をされます。嘘でしょ、冗談ですよね、といった大真面目な問いかけと共に。 そんな顔を目の当たりにするたびに、こちらはこちらで、ああ、やっぱりそういうことなんだ、と同じように呆然とします。マンガを読み楽しむのにも能力が必要なこと、メディアリテラシーのありように対する理解ってのがその程度に未だ「活字」「文字」前提でしか解釈されないことに、わかってはいるつもりでも改めて。 はい、本当です。何も最近になって起こり始めたことでもない、少し前、少なくとも概ね今世紀に入るあたりの頃からは学校現場で広く確認されていた現象です。 それどころじゃない、昨今ではアニメも「読めない」、おはなしの流れに沿って観ることができないことも、こんなの例外だろ、と無視できない程度に起こり始めています。紙のメディアに印刷された情報をうまく摂取できないだけでなく、
*1一連のオウム事件A級思想戦犯中沢新一、堂々の非転向宣言、であります。ほれ、この通り。 「彼の思想のもっとも重要な達成である『種の論理』の中に、正真正銘の構造主義と良識あるポスト構造主義を同時に見いだしたときには、私の喜びは頂点に達した。」 ネタは京都学派。それも田辺元というシブいところに眼をつけた。掲載誌も『すばる』なんて懐石みてえなお座敷。でもって、梅原猛あたりのありがたいお墨つきも早くから頂戴して、初手から売り出しの商品イメージは決まっている。 このところ田辺元と四つに組んでることは知っていた。ああ、そうかい、南方熊楠からマルクスに行って、今度はいよいよ本腰入れて「日本」で商売しようってわけね、と、こちとら例によってのジト眼で眺めていたのだけれども、二年も頑張ってたとはちょっと驚いた。うむ、これはまずほめてつかわす。 哲学、ってやつが昨今、カッコいいと勘違いする向きがある。「哲学者
● 「夏」のありようが変わっています。「夏」というもの言いで示される、想定される中身がかつてと変わってきている、そういう意味において、です。 「夏」と口にし、眼に入った瞬間に反射的に立ち上がるイメージみたいなもの自体が、すでにあらかじめ設定されたものになっていて、それが現実のいなかとどれくらいズレているのかわからなくなる。いや、もはや眼前のいなかはもう「夏」と呼んでしまっていいものかどうかわからない、「夏」とこれまでの習い性任せにうっかり呼んでしまえばその瞬間から眼前の事実、実際にいま、何が現実の夏に起こっているのかを穏当に見つめて認識するストライクゾーンが一気に狭まってしまう、そんな事態すら起こっているように思えます。 「夏休み」という要素も季節感にすでに織り込まれて久しく、たとえば小説や映画、ドラマにアニメといった類でも「夏」と「夏休み」はある定型として表現されてきています。もちろん、
● 『マンガ嫌韓流』(以下、『嫌韓流』)については、作品そのものもさることながら、作品をめぐる現象自体が興味深いと言えます。それは、大きく言って今のニッポンの情報環境が「戦後」六十年、新たな形を求めて変貌し続けている現状をあぶり出す格好の事象となっています。日韓関係における政治・外交的なマターとしてのみ『嫌韓流』をとらえるのでなく、「戦後」の終焉と新たなステージへと移行しつつある中でのニッポン社会のありようを計測しようとする観測点として、これらの現象はとらえられるべきでしょう。 ここ数年、いわゆるマスコミに対する国民の不信感は、戦後六十年を通じてこれまでにないほどまでに高まっています。メディアは嘘をつく、というのが、もうかなりの程度、国民的常識になっている。それはこれまであった大衆的メディア批判の気分のように、ワイドショーやバラエティがくだらない、電波のムダ遣いだ、週刊誌の下世話なスキャン
● マチとイナカ、といったことを、いまさらながらに少し考えています。 古くて新しい問い、ではありますし、またその分陳腐で月並みにしか響かないものでもありますが、でもだからこそ、今のこの21世紀のニッポンにとって大事な問いのはず、という確信もそれなりにあります。 かつてなら「都市と農村」、消費主体の都市に対して生産を担う農山漁村、といった対比の図式があたりまえだった。いや、今でも大文字のガクモン、社会科学だの何だのの領分じゃそれは常識であり、かつ有効なんでしょうが、あたしなんぞがわざわざ改めて考えてるのはそういう水準とはまた別の、現在手もと足もとで進行しているらしい現象とその背後にあるらしい未だことばになっていない何ものかにざっくり網をかけちまえるようなとりあえずの道具としての、問いであります。 「郊外」論、というのもあります。人文地理学だの文化史などでずっと言われてきた大きな脈絡とはひとま
嫌韓、というのは、ネット世論においてはデフォルトのモードだったりしてきた経緯があります。昨今「ネット右翼」などと一部で言われるような現われというのは、ネット空間の成立当初からある種つきもの、お約束のようなものでした。 とは言え、ネット世論というかインターネットでの疑似論壇的な空間の成立とその変遷については、未だ正史が存在しない。というか、そもそもネットに関する歴史にそのような正史といった大文字の優越性は成立しにくいという構造的な事情もまたあります。なので、ここはひとまず個人の経験から言うしかないわけですが、とりあえず97、8年頃、インターネット環境が普及し始めた最初の時期に、BBS形式の掲示板があちこちにできてきた、当時がそういう「議論」「論争」系のモードがネットになじむものらしいことを発見していった端緒だった、ということは言っておいていいでしょう。 それ以前、インターネットより前のパソコ
● 電話の向こうで、いつも会う時よりも少しだけ低い、でもやはり心地よい太さのあの声が響いていた。 「●●●●君、悪いけどそれはダメだ。できませんよ」 20分くらい、いや、もしかしたら30分以上、受話器を握っていたかも知れない。この世代の年長者に対してまずは長電話と言っていいやりとりの中、型通りの無沙汰のわびから近況などのとりとめないやりとりをさしはさみながら、折りを見て何度も繰り返すこちらのお願いごとに対して網野善彦は、そこだけ声をはげますようにして応えていた。こちらのいつにない執拗さに呼応して、同じく何度も何度も。 「君とだったらいくらでも話をしたいし、直接顔をあわせて尋ねてみたいこともたくさんあるんだ。それだったら僕はいつでも時間をとるけれども……」 それは僕だってそうですよ、網野さん。僕が生来のおっちょこちょいでお祭り好きなすっとこどっこいなのはもうよくご存じでしょうけど、でも、伊達
● 「今何やってるの?」 「学生やってます」 たとえば、親戚のオジさんとかに聞かれたらそう答えるでしょ。でも、その「学生」の内実ってただ学生証を持ってるってことだけで、考えてみりゃみんな案外他人ごとなんだよね。雑誌や新聞、テレビなんかのメディアの舞台でいろいろに語られる「学生」ってもの言いはあるけど、でも、そんな定番の語りには「ふぅん、俺たちってそういう風に見られてるんだ」程度の感想しか持たないし、持てない。それでも、社会的にはやっぱり「学生」としか呼ばれようがないし、自分たちでもそれ以上のほどき方はできない。 でも、二十年、三十年前に「学生」というもの言いに込められた内実ってのは、今の「学生」のそれとめちゃくちゃかけ離れてるかも知れなくてね。なのに、それがどのようにかけ離れてきたのかっていうのは、社会のどの部分であれあまり自覚されてなかったりする。「学生」をめぐる現在って、基本的にそこら
ああ、キモチ悪ィ。二日酔いの胃袋にバリウムをむりやり五リットルくらい流し込まれたみてえなキモチ悪さ。胸やけしまくって吐き気がとまらねえや。こうなるのがわかってたから実はこの原稿だけは、仕込みだけはずっとやりつつ、テキストにするのが剣呑で最後の最後まで仕事場の脇によけといたんだけど、ほんまにもう、どうしてくれる、宝島社(笑)。 小谷真理が山形浩生、およびその原稿を掲載した本「オルタカルチャー」を出版した版元メディアワークスと発売元主婦の友社を、名誉棄損として頒布、販売の差し止め請求をやらかした一件であります。 すでに、世に「オルタ事件」として語られているこの一件、何やら小谷側が「勝訴したわ!」と騒ぎ回ったこともあって、フェミ方面じゃ画期的な裁判のようにも喧伝されているようですが、法律的な額面は別にして、ことの本質としては、ンなこたぁない。シャレのわかんねえ自称インテリのバカまんこ……あ、いや
● 勤め先の大学は、札幌ドームの近く。なので、地下鉄東豊線福住駅からの人通りを横目に眺めて、あ、今日はドームで何かあるんだな、と察する次第。その混雑で駅から大学までのバスも多少遅れたりするわけで、学生たちもまたそういう「読み」を普通にしています。今日あるのは日本ハムファイターズの試合なのか、サッカーその他野球以外のスポーツなのか、それとも何かのコンサートやライブなのか、はたまたそれ以外の催し物なのか、歩道を行く人通りの数や流れ方、その人たちの年齢構成や性別、身なりや服装などまで勘案しながら、およその見当をつけるのがいつしか習い性になっています。 そんな中でも、やはりファイターズの試合だけは格段にわかりやすい。いや、何も道行く多くの人がレプリカのユニフォームを着てたり各種グッズを手に携えてたりするからといったミもフタもない理由からだけじゃなく、明らかに独特の雰囲気があるんですよね。 まず、女
先に死んじまったんだから、何書かれてもしょうがないっすね――そんなことを言ってそうな気がする。いつものように、軽く憮然としたあの顔つきで。 急逝して10年、「評伝」と銘打ってはあるがさて、果たしてそう呼ぶべきか。手にとる読者、彼女と同時代を生きた者ならば、これを定着された完成形としてでなく、それぞれの見聞、体験を場面ごと、挿話ごとに補完しながらきっと読むはず。そして、おそらくそういう読まれ方が無数に介在することで、この一冊は初めて十全な評伝につむぎ直されてゆく。その意味で、これはいわゆる「評伝」ではない。ないから、いいのだ。 そうやって描き出されるだろうナンシー関は、ほどよい具合にこなれている。誤解を怖れずに言えば、うまく通俗化している。晩年、週刊誌メディアを軒並み制覇したかに見えた時期の、最も膨らんだ範囲での彼女のファン、読み手の最大公約数からしておそらく最も違和感のないナンシー関が紙の
学問は、すぐ世の中に役にたつものではないということをよく哲学者は口にするのであるが、しかしながらいくつかの需要が個々にあれば、少なくもいちばん目前のもっとも痛切な要求に答えうることを、まずもって学びとらなければならない。 ● いま、われわれはどうやら、文科系の終焉に立ち会っています。 文科系、という言い方がおおざっぱ過ぎるならば、人文系、と言い換えても構いません。たとえば、大学ならば主に文学部に設置されているような学科の学問。文学、歴史、思想、哲学、心理、芸術……それらをひっくるめて人文系といいならわしてきた習慣に従って、なおその周辺に経済や法律だのといった、戦後このかた特に「社会科学」と称され「自然科学」と対置されてきたような領域までゆるやかに含みながら、少なくとも学校の教科で言えば理科と数学をそれほど重要視しなくていい(と、なぜかされてきた)ような方面の知的営み。人間と社会にまつわる学
西原理恵子という“漁師”の目線。 あるいは、オヤジの皮かぶったキンタマオンナ、のこと *1■ 二二年目の舵 ――**さんは、九三年の年末のNHK『BSブックレビュー』で、その年のベストワンに『怒濤の虫』(毎日新聞社)を挙げてらっしゃっいましたね。その他に挙げた二冊は民俗学の本だったので、強く印象に残っていました。「とにかくすごい人が現れたんだ」と西原さんを評されてました。 ● それ、悪いけど記憶になんだよなあ。あの番組、思いっきり偏向しやがってて相性最悪だったし。 ○ 評論家の人はそうやってスカすんですよ。二番、三番は難しい本を挙げて、一番に柔らかい本を持ってくる。それで「僕はこんなにマニアな本だって読んでるんだよ?」って、自分の柔軟さをアピールする。あたしはよくその位置に入れられるんです。 ● いきなりそういう挨拶かい(笑) だから、なんであんたはそういう立ち位置になっちゃってるのか、ま
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