子供のころから、ヒーローよりヒールが好きだった。主人公より脇役が好きだった。 今になって考えると、それはこれまでさんざん語っているようなヒールの哀しみがあると同時に、美しいものより醜いもののほうが多様性に富み想像の余地があるからだと思う。 よく言われることではあるが、美は狭いが醜は広い。 だから、芸術も醜、汚、歪を描いたものには多様性と自由がある。一方、美、聖はある程度固定化されている。これらは言葉の表現に顕著だ。醜いものを表現する言葉に比べて美しいものを表現する言葉はある程度出尽くした感がある。 と、ここまで言うと、醜の芸術いいじゃんみたいなニュアンスになってしまったが一概にそうとも言えず、視点を変えるととかく美は圧倒的なんである。言葉すら必要ない、ということかもしれない。そう考えるとやはりどちらも捨てがたい。 似たことで言うと、キレイは狭いがカワイイは広い。「キレイ」は客観的だが「カワ