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数学
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「もしもし~、ナカムラさん?京都の〇〇です。 えらい、ご無沙汰してます~。 どうですか?商いのほうは・・・。」 電話の向こうから響くのは、 野太い近江なまり・イントネーションの声。 *************************** その声の主が 初めてナカムラへ来られた時 黒詰襟の学生服姿での 国産布地の営業でした。 父が開業して5、6年目のころだったようです。 そして 次に再会するのは、布地から既製服になり 私自身が店を継ぎ数年もたったころ。 「もしもし~、ナカムラさん? 昔××にいてました、〇〇です。 社長(父のこと)覚えといてくれはりますか?」 詳しくお話を伺ってみれば、独立し 「捺染業」の会社をやってるとのこと。 「捺染業」 そう、布のプリント屋さんです。 京都の会社に伺ってみれば、 綿・麻・ウール・合成繊維 さまざまな白地の原反が ところ狭しと置いてあります。 そして「捺染
布を切るためだけの大きなハサミ。 「断ちバサミ」「ラシャ切り鋏」 という プロ仕様の道具のひとつです。 これ、実によく切れます 切れないと使い物になりません。 布地を買ったことのある人なら 目にしたことがあるかも ちょこっと切れ込みを入れたところから このハサミをあてたと思いきや そのまま布地の上を滑らせて シュ―――――とか。 型紙どおりに切っていく裁断作業 ジョキジョキと直線もカーブも うす~い布地も厚い布地も 自在に布地を痛めることのないキレ味です。 普通のハサミより重いです 重さで切ります。 料理人には包丁 仕立て屋は鋏 命の様に大切にします。 布以外のものには使いません 糸さえも小さな糸きりハサミで切ります。 ましてや、紙でも切ろうものなら 一発で切れなくなります。 型紙を切るにも、うちでは使ってました。 だから布用と紙用は区別できるよう 持ち手のところに目印を付けて使います。
もの心ついた時には、布の反物の中で弟と遊んでいた。 布を裁断するハサミで紙を切っては、叱られていた。 時代は昭和の豊かさへの階段を駆け上がっていた。 両親はとにかくお店優先だった。 夜遅くまで忙しかった。 子供が夕食を取る時間はとうに過ぎていた。 すきっ腹を抱えながら、弟と二人お店に通じる階段の途中で 眠りこけていた。 小学校5・6年生の頃には、 フャッション屋の子供、生意気に VANMINIやKENTを着ていた。 店舗の二階ではさすがに手狭になりだした中高生のころ、 兄弟二人近所のお家を転々と間借りしながら、東京の大学を目指した。 就職活動をしながら自ら選んだ道は、 当時一流と言われた カネボウやレナウンなどの 素材繊維産業でなくアパレルだった。 三十数年、いや、もの心ついてからの五十数年間 どっぷりと染まってきた女性のための服飾の世界。 たった一枚の布地。 無地か柄か ×色の数 ×図案
気温もぐっと下がってきましたねぇ。 こうなると 毎年のように思うのが 「何、着てたっけ?」 インナー的なTシャツとかセーターは そんなには迷わないもの。 そうなんですよね~ 一番上に着たい「羽織るもの」 これに迷うんですよね~。 防寒のためのコート以外 どんな「羽織るもの」があるでしょう。 まづ、素材からみてみると 布帛(ファブリック)は縦糸と横糸の織物 布帛で作られたものはジャケットと呼ばれるように キチっとして少しかしこまった印象です。 同じ糸でも編み上げていくとニットとかジャージー。 ニットのものはカーディガンに 代表されるように、寛いだ印象です。 この素材の持つ印象はとても大切で やはりT・P・Oに合わせて欲しいです。 基本的には、 公的← ― ― ― ― →私的 布帛← ― ― ― ― →ニット なかんじでしょうか。 一つだけ例外があります。 それは後述しますね。 公的なシーンは
もの心ついた時には、布の反物の中で弟と遊んでいました 福山市で開業 お店としての体裁の整った家の中には 洋装店としての商売道具がいろいろと なかでも ソロバンは必需品 商家のソロバンは 五つ玉で しかも幅が十センチもあろうかという大きなもの こんなのがなぜか何面もありました 玉を入れるだけが使い方じゃあありません 弟とふたり ひっくり返して手をのせ足をのせ 四面も使えば、 いまでいうスケートボードの出来上がり 二人して ジャージャー、ジャージャー 大喜び 普通使う四つ玉ソロバンと違い 面の底が抜けていません。 もちろんこれにはちゃんとした訳があります。 相対で値段を交渉する 周りの人にはその値段交渉を 見せない様にするためです。 大阪・船場風にいうなら 「これでどないだす。パチリ」 「アカン、これや。パチリ」 「そりゃ~キツイわ。パチリ」 「ここがカンニンなとこやな。パチリ」 「おおきに」
「まいど!おおきに。耕一くん、よう来てくれはったなあ。」 初めてお会いした時、 その人は経営する自社ビルの玄関先を、 自らホウキで掃除されていました。 サスペンダー付のズボンのお腹を揺らしながら 真っ白な口髭・顎髭をたくわえ 柔和な目がメガネの奥で笑っていました。 大阪は船場のど真ん中! 友人と組み、戦後の食うや食わずの頃から シルクなど高級生地を販売し、 ジバンシーやダンヒルなど 数々の最高級舶来品を日本に紹介することで 名をとどろかせた、その人でした。 「あんな若よ。 みんなが知ってるもん(ブランド品のこと) そんなもん、海外から持ってきてもおもろないんや。 だ~~~れも知らんけどピカって光ってるもん 探すんが、わしの仕事なんや。 これがよう売れてみ、そのうち みんなが知ってるもんになるやろ。 これがおもろいんや。」 アパレル企業を辞め、生まれ育った福山市へUターン。 家業であるブティ
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