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装丁を味わう
penguin-parade.hateblo.jp
(『自己犠牲のヤなかんじ カムパネルラの限界』からの続き) <贈与>を<贈り物>にして考えてみましょう、プレゼントです。 あなたが誰かから<贈り物>を貰ったとします。そのお返しをしなくてはならないと考えるでしょう。 そして返すものは同等?いえ、感謝の気持ちを込めてそれ以上のものをと考えるのではないでしょうか。そうやってやり取りするうちにプラスアルファはいつしか贈り物本体以上の重さとなってしまい、手放しで喜べるステキな<贈り物>ではなくなったりします。 昔モースさんは『贈与論』で、<gift>は古いドイツ語で<贈与>と<毒>という反対の意味を持っていると指摘しました。贈り物には返礼を強制する力があり、それは人と人との繋がりでありつつ、時には毒や呪いとなる。 『輪るピングドラム』には、カムパネルラに助けられたザネリも登場しています(と私は思っています)。 『銀河鉄道の夜』にはザネリのその後は書
「だからさ、苹果は宇宙そのものなんだよ。 手のひらに乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ」 「あっちの世界?」 「カムパネルラや、他の乗客が向かってる世界だよ」 「それと苹果になんの関係があるんだ?」 「つまり、苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」 「でも、死んだら全部おしまいじゃん」 「おしまいじゃないよ! むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ」 「わかんねぇよ」 「愛の話なんだよ。なんで分かんないのかなぁ」 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、1923年の関東大震災の翌年から書き始められた物語です。 10年後、昭和三陸地震と津波が起きます。その半年後に亡くなった彼が、枕元に置き書き続けていたものが、この未完の小説・・・ 3.11の後、私は久々にこの本を手に取り思いをめぐらせていました。 考えていたのは主に<ザネリのその後について> ジョバンニはいいよ、
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