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雑学
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2019年2月17日(日)に投稿された加藤治郎氏による一連のツイートは、Twitterを利用している短歌関係者およびその周辺でかなりの話題となりました。単にTwitter上での一騒動というだけに留まらず、既に複数の総合誌の歌壇時評において取り上げられています。時評で取り上げる、ということは、広く歌壇ないし短歌・文芸に関わる者のあいだで共有され考察されてしかるべき事案であると書き手が判断した、ということです。私も今回、この「詩客」でこの件について書くことを引き受けたのも、Twitter上の失言と撤回というだけの話ではなく、より広く深い視野からこの問題について考える必要があると私自身が判断したからです。 実は私は、加藤氏の例のツイートがあった当日から翌日にかけて、Twitter上で加藤さんご本人へリプライを送り、直接的かつ公開の状態で、発言に対する批判を既に行っています。私の批判の論旨は現在に
結局はこの話をしなければいけないのだと思う。欲望についてである。 東直子との共著『しびれる短歌』(ちくまプリマー新書、2019年1月)の中で、穂村弘はみずからが短歌を始めたバブル期を回想しながら次のように言う。 短歌の世界に限定して言うと、俵さんとか加藤治郎とか僕がバラバラでありながら共通しているのは、欲望に対して肯定的だっていうこと。それが口語短歌と結びついていたから、初期に口語で出た歌人はみんなそうだと思われて、そんなにてらいなくていいのかお前らっていう、その違和感ですごく叩かれた。単に口語が異質だったっていうだけじゃなくて、その背後にあった欲望の肯定が受け入れられなかったんだと思う。 (『しびれる短歌』第六章「豊かさと貧しさと屈折と、お金の歌」p.157) 80年代に登場した、いわゆるライト・ヴァースからニューウェーブに至る一連の作者たちの「ハイテンション」さについて、永井祐や斉藤斎
八月十九日(日)、塔短歌会主催の現代短歌シンポジウム(要するに、全国大会二日目の、一般公開部分)の鼎談「平成短歌を振り返る」において、 「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない(虫武一俊『羽虫群』書肆侃侃房、二〇一六年) が話題に上った。その際、何故「勝ちたくなさ」ではなく「負けたさ」なのか、という話題が永田淳から提示され、壇上で栗木京子や大森静佳を含めた三人で様々に議論があったが、そのやりとりを会場で見ていた筆者も、ここ数ヶ月、自分なりにこの「負けたさ」について考えてきた。 恐らく、問題となるのは「勝ちたくなさ」と「負けたさ」では何が違うのか、ということだろう。結論から言うとこの二つは、勝ち負けに対する態度表明としては似て非なるものである。 「勝ちたくなさ」とは、自己の外部からやってきた勝負の構造や文脈に乗りたくない、絡め取られたくないという、消極的な拒絶である
はじめに 一章:塚本邦雄の「不安」 二章:菱川善夫と「ひかりになること」 三章:「作者」の逃走 四章:「読み」以前 おわりに はじめに 三宅勇介は、二〇一七年七月の『短歌研究』誌の特集「わが評論賞のころ、あるいは短歌評論の意義について」の「短歌評論の意義について」という小論において、ある短歌を読んで、心の中で「この歌は好きだなあ。なぜなら……」と思ったとする。それがもうすでに評論なのである。いわゆる少し長めの「評論」というものはその延長にあるにすぎないと書いている。 しかし私にとって、その「評論」のようなものはそんな風に生まれては来なかった。まず「なぜなら」を考え、そこから自然に「評論」の言葉が芽生えてくるなどという状況は存在しなかった。それよりも先に「批評をせよ」と要求する場があったのだ。たとえば「歌会」のような場が私にそれを行わせるような強制力を働かせた。「批評をしたい」という思いより
三章:「作者」の逃走 1 ところで『誰にもわからない短歌入門』には以下のような記述がある。 短歌の「うまさ」というのは、時として短歌を損なう。短歌において技術やレトリックというのはあくまでうたの核心を支えるものであるべきで、それ自体が読者にとってのうたの眼目になってはいけないのだ。そういう短歌は単に作者の「うまさ」を読者にひけらかすための手段へと成り下がってしまう。 鈴木ちはね 同書は「一首評」集のような形式をとっているが、「入門書」でもある。だからこのような文章も時々出てくる。「うまさ」というのは通常は肯定的にとらえられるものだと思う。けれど鈴木はその全肯定に対し、保留をさしはさんでいる。けして「うまさ」の否定そのものではないが、「うまければ、うまいほどよい」という価値観を仮想敵として攻撃している。 短歌の韻律を考えるときに、表面に現れてくるものより深部でからみあう母音と子音や拍感を大切
目次 1章:君でないひと 2章:グリーティング・カードとイコン 3章:四人称 4章:濃厚な個人 5章:共振 6章:擬似同化 7章:なぜ「君」と書かれるか 8章:ゼロ人称 9章:短歌が本質的に抱える違和感1 10章:短歌が本質的に抱える違和感2 1章:君でないひと 塗り絵のように暮れてゆく冬 君でないひとの喉仏がうつくしい 大森静佳『てのひらを燃やす』 君じゃない人と歩けば降りそそぐこれは祝福の桜じゃないな 千種創一『砂丘律』 君でなきひとに会うにもバス停にひかり浴びつつ待たねばならぬ 染野太朗『人魚』 「君でないひと」「君じゃない人」「君でなきひと」……短歌でこのような表現を見るたびに違和感を覚えます。意味が通らないというわけでもなければ、短歌の表現としてまずいということでもないのです。むしろ短歌の表現として至極まっとうだからこそ、短歌というものが本質的に抱える違和感をあぶりだしているよう
角川学芸出版からこのたび青春短歌エッセイ『今日の放課後、短歌部へ!』を上梓した「ちばさと」こと千葉聡さんは1968年9月生まれだから、ぼくと同学年の45歳。枡野浩一さん、飯田有子さん、中沢直人さん、大松達知さん、あるいは吉川宏志さんなどとも、ほぼ同世代の歌人である。ぼくらの世代にはなぜか、実際の歌の表現の地平にたどりつくまでに、二重三重の社会的バリアを突破しなければならない人々が多く、みんなすごく苦労しているように感じる。千葉さんも枡野さんも「歌人である」ということに対する世間の眼を過剰なまでに意識し、「見られる自分」と「見せる自分」との乖離のおもしろさに、その表現の焦点が当たっている。つまり≪世間一般大向こうが「短歌」というものに対してもっている誤った既成観念の打破をしなければ、じぶん(たち)の表現の地平は決して現れてこない≫というメタ的「地ならし」の作業が、彼らのアイデンティティをまず
「女性性」という視点が取りこぼすもの ~野口あや子『夏にふれる』批評会と『にこたま』に思うこと 『にこたま』(講談社刊)という漫画をご存じだろうか。『にこたま』は、つきあって九年目のアラサー同棲カップルを主人公にした人気コミックで、“物心ついたらデフレ”世代の心の揺れが、これでもか、というほど痛々しく描写される。主人公と同年代にあたる筆者にとっても、“家事労働を含むあらゆる義務を分担し合う”ことや“男女関係がフラットである”ことは、気づいたら否応なくそうなっていただけの話であり、主人公カップルの低体温ながら互いに義理を果しあう感じは、現代の恋愛関係のリアルな一面を確かに映し出していると思う。 しかし、ある日、資生堂のPR誌「花椿」の穂村弘と作者・渡辺ペコの対談を読んで、そういう見方もあるのか、とちょっとだけおどろいた。なぜなら、穂村が、『にこたま』の主人公ふたりの関係を指して、「あまりにフ
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