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おみそ汁
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S-Fマガジン 2007年 10月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2007/08/25メディア: 雑誌 クリック: 7回この商品を含むブログ (15件) を見る相変わらずの周回遅れだが、第4回を読んだので言及しておこう。 『ゼロ年代の想像力』に関しては、第3回までを読んで『自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム - 宇野常寛の見落としているもの』というエントリで東浩紀、宇野常寛両氏の噛み合っていない部分を指摘した。第4回もあまり進歩的な内容ではなかったので当ブログの基本的なスタンスも変わらない。両氏は相変わらず噛み合っているようには見えない。というか、宇野氏は東氏に上手く噛みつけていない。これが今のところの結論だ。 ただ、逆の視線を用意することは意外と簡単にできる。すなわち、どこに軸を置けば彼らの対立構造を素直に読み込むことができるのか、ということだ。今回はそ
さんざん既出とは思いますが、はてなスターの引用機能はおもしろい。ご存じない方のために機能を簡単に説明すると、スターをaddするとき、エントリのある部分をドラッグしながら星を与えると、ドラッグした部分が星にキャプションとして付属するというものです。つまり星をつけるときにどこが良かったのかを引用して明示することができるわけです。正直なところ、twitterの次はtumblrかよと思わないでもない。ただ、想像力さえ働かせればもっとおもしろい使い方もできるし、既にやっている人たちもいるはずだよね。 例えばエントリから1つずつ違う文字を引用していくことで、もともと存在しなかった文章を紡ぐことだってできる。それでメッセージを伝えてしまうこともできるのだ。素敵なエントリから1文字ずつ星で紡いで「あ」「ん」「た」「バ」「カ」「ァ」と親愛を込めてみたり。苦難に直面しているブロガーのエントリから「逃」「げ」「
id:SuzuTamakiさんによる学問バトンのエントリのコメント欄、id:sakstyleさんとid:SuzuTamakiさんのやりとりにてid:nuff-kieの名前が挙げられているようです。 sakstyle 『実は、nuff-kieさんに回して欲しかったなんて内緒です。』 (2007/07/30 18:02) SuzuTamaki 『わ、わあ! 確かに興味深いかもです……。 もしご覧になっておりましたら(ぇ』 (2007/07/30 22:19) 失礼ながらまったく気付いていませんでした。認識したの昨日です。id:nuff-kieのブログ巡回術はLDR依存であり、はてなアンテナ経由でブラウザ使ってアクセス…というのは実際のところ滅多にやりません。というわけでLDRだと全文配信のブログのコメント欄とか視野に入ってこないんだなぁと今さらながら痛感した次第。LDRでブログのコメント欄を見
というわけで、「僕が考えたコミケ」の続きです。俺だったらこのコミケに何を持ち込むのか、それを追いかけてみました。 アウトライン ドラえもんの原作でがまん大会をしていた回がある。ここで登場するひみつ道具はエスキモー・エキスだ(てんとう虫コミックス34巻)。俺が描く物語はこのパロディ。がまん大会ではなく、がまん汁大会を開催します。たぶんこの時点で半分くらいの読者が脱落したのではないかと思いますが、ドント・ストップ・ザ・ミュージック、物語は続きます。 がまん汁大会とはその名の通り、がまん汁を漏らした奴はすべて敗者、最後まで残っていた奴が勝者という過酷なツール・ド・がまん汁。大会レギュレーションは、しずかちゃんに扇情的なポーズを取らせて、目をそらすことなくみんなで彼女の裸体に見入る。ただそれだけ。 ストーリー 大会の結果、のび太が一番に脱落してジャイアンが勝ち残る。勝者ジャイアンが優勝商品であるし
S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2007/07/25メディア: 雑誌 クリック: 6回この商品を含むブログ (32件) を見るようやくというか何と言うべきか。1ヶ月近く遅れてしまったが『ゼロ年代の想像力』第3回を読んだので言及しておこうと思う。今回の要旨をまとめると次のようになる。 90年代前半までを支配したジャンプ的なトーナメントシステムとは、社会が用意したルールの中で戦うことを意味している(筆者註:これは大きな物語を指していると思われる) そのシステムの崩壊は、震災+地下鉄サリン事件+エヴァが象徴的な1995年に起こった。同年、ジャンプの人気を支えていた『ドラゴンボール』と『幽遊白書』の連載が終了、トーナメントシステムの時代が終わりに向かう。ここから時代は決断主義/サヴァイブ感の準備期間に入る 9.11、ネオ・リベラリズムの登場。引
GUNSLINGER GIRL 2 (電撃コミックス) 作者: 相田裕出版社/メーカー: メディアワークス発売日: 2003/06/27メディア: コミック購入: 6人 クリック: 38回この商品を含むブログ (119件) を見る 本エントリは、以下の前提条件のもとに成立しているということを明示しておく。 「『ガンスリンガー・ガール』をめぐる冒険」のルールに準拠する 村上春樹著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のネタバレを含む 前回のエントリにも書いたとおり、この作品にはオタクと二次元美少女の関係性という視線を当てようとしている。そのとき、主体に置きたいのはもちろんオタクであり、それはこの作品における"担当官"という役割に該当するだろうと考えている。 ヘンリエッタの担当官・ジョゼは、ヘンリエッタを、言葉どおりの意味で大切にしている。彼女の記憶が失われることを危惧して「条件付け」
GUNSLINGER GIRL 1 (電撃コミックス) 作者: 相田裕出版社/メーカー: メディアワークス発売日: 2002/11/01メディア: コミック購入: 6人 クリック: 145回この商品を含むブログ (242件) を見る『ガンスリンガー・ガール』について、"悪趣味を悲哀でコーティングして免罪符を得ているような作品"と評することは容易い。 例えば悲惨な事件に巻き込まれて死にかけて死にたいと言っている少女に機械の手足を与えてしまう身勝手な振るまい。例えば投薬によって少女たちから無条件の信頼を得てしまう「条件付け」。例えば男たちよりも弱い少女たちの社会的身分。例えば「条件付け」られて銃器を手にした彼女たちの戦闘美少女的な振るまい。例えば戦いで傷付く少女たちの身体性とそれによって勝手に心を痛める男たち。例えば傷付いた少女たちの身体を癒すためにさらに加速する「条件付け」…。 ただし、この
これは俺の幼年期のお話。 当時の俺はとにかく引っ込み思案で、いつも母親の影に隠れているような子どもだった。だからその日も、なんでその女の子と遊んでいたのかよく思い出せないし、たぶん理由なんてなかったんだろうと思う。俺はある女の子と草むらで遊んでいた。彼女以外の女の子と男の子もいたはずだけれど、どうでもいい。まだ小学校にあがるずっと前のことだった。 とくべつ彼女のことが気になるというわけでもなかった。この日も彼女と積極的に話したりしていたわけでもない。というか彼女に俺の興味を惹くような要素はどこにもなかった。当時の俺の一大関心事は昆虫で、昆虫こそ世界のすべてだった。だからこの日もバッタを追い掛け回したり、でっかい石をひっくり返して見慣れない虫を発見したりするのが楽しくてしかたなかったことを覚えている。 ではなぜ彼女のことが俺のなかで印象的になってしまったのか。それは、彼女が草で編んだ環をさら
『ゼロ年代の想像力』第1回で、宇野常寛は「批評」について以下のように述べていたんだけれど、 2007年の現在、批評とは特定のキャラクターをアピールしたい人のためのツールとしてしか機能していない。 それっぽいことを言って煙に巻こうとしているのか知らないけど、何の話をしているのかよく判らないよ…。だったら俺は、東浩紀の言葉を改変して、次のようにまとめようと思う。 批評とは、誰かが発見しなければその良さが埋もれてしまったかもしれない想像力を見落とすことなく評価すること。*1 「埋もれてしまったかもしれない想像力」と書いた理由は、マイナーな作品を評価するのが批評家の仕事なんだぜという話では決してなくて、作家が生み出した想像力を、それが些細なものであってもスルーせず、敏感にキャッチする感度の高いアンテナを持つことこそ批評に必要だと思うからです。そして、その想像力を“どのように”評価するかは人それぞれ
早合点されないように機先を制すると、表題の意味はid:nuff-kieとしてのブログ更新を無期限に停止するということです。先日取得したサブアカウント、id:foxintheforestとしては今後も活動していきます。 今回の決定ですが、気分の問題というのが大きいところです。なので深い意味というのはさほどなく、書いている俺自身に大きな心変わりがあったわけでもありません。意味を与えるとすれば、ひとつの時代の区切りとでも言いましょうか。いずれにせよ、これからもid:foxintheforestとして相変わらず創作に批評に精を出していくことでしょう。特に、「舞城について語るぜ」とこのブログで宣言していた件についてはサブアカウントで引き継いでいく方針です。それがファ文での公開になるのかはてダでの公開になるのかは不明ですが、アイディアはいくつかあるのでお蔵入りにはさせたくないなと思っています。つまり乞
この前の日曜日に書いたエントリでは詳しく触れていなかったけれど、俺はそれなりに『Fate/stay night』という作品を評価しています。もちろん俺もあの作品のあり方には疑問を持っていて、それは士郎の内面についてではなくて、作品の分岐構造についての違和感なんだけど、だからこそ「なぜ俺はそれでも『Fate/stay night』が好きなんだろうか」と煩悶していたわけです。その結果、いろいろな解釈=妄言を導き出すことに成功しました。 というようなことをおよそ1年前に考えていて、その当時書いた未発表エントリを発掘して少し手を入れました(俺の今の言葉で書いている)。タイミング的には、今が一番ちょうどいいかと思うので、公開します。 ちなみに「『Fate/stay night』救済計画」というタイトルは、最終ルートのせいで台無しになっていると感じられて仕方のないこの作品をなんとかサルベージしようとい
S-Fマガジン 2007年 08月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2007/06/25メディア: 雑誌 クリック: 2回この商品を含むブログ (19件) を見る『ゼロ年代の想像力』第2回を読んだ。一昨日のエントリに書いたとおり薄々感じてはいたけれども、宇野常寛は東浩紀と少しばかりかみ合っていないように思った。 東浩紀は『動物化するポストモダン』で、エヴァ以降に加速した、ただひとつの物語(原作)が複数化されてしまう二次創作空間について焦点を当てることを主眼にしていた(それを彼はデータベース消費と呼んでいた)。そして『ゲーム的リアリズムの誕生』では、ただひとつの物語が複数化されてしまう二次創作空間で、それでも単一の物語を語ろうとすればどのような手法が必要になるのか、それを我われはどのように受容するのか、そういったことを検討していた。それを彼は「マルチエンドをどう文学的に処理
宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んで、1週間前にこのようなエントリを書き上げた。その内容を簡単にまとめるとポイントは次の2つになる。 宇野常寛の言葉(決断主義、サヴァイヴ感)だけでは失われてしまう想像力が出てくるのではないか ゼロ年代の想像力は、90年代の想像力と地続きなのではないか(90年代の想像力を"セカイ系"と一括りにして退場させてしまうことに問題はないのか) 今回はこれを受けて、90年代の想像力とゼロ年代の想像力の接続について検討しようと思う。前回のエントリでは「批評の対象はゼロ年代の想像力を抱えた作品にすべき」であると書いたので、今回は『Fate/stay night(PC版)』を対象とし、この作品を通じて90年代からゼロ年代の想像力がどのように接続されるのかを考えたい。まずは作品について簡単に説明をしておこう。 『Fate/stay night』とは2004年にType-Mo
遅ればせながらSFマガジン7月号に掲載された宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んだ。第1回ということであまり詳しい内容ではなかったけれど、この連載は「いつまでも東浩紀や、彼に影響を受けた言説に支配されているようではどうしようもない。もっと多様性に富んだ批評がなければ、ゼロ年代以降の想像力が衰弱してしまう」ということを主張したいのだろう、つまりそれが宇野常寛の危惧していることなんだろうと考えている。俺はこれを正しいと思っていて、つまりは新しい作品群にもっと光を当てなければ新しい想像力が認められないまま、それこそ失われてしまうのではないかとは感じる。 だからこそ、彼はあえて挑発的な言葉を使ってこちら側に語りかけてきているんだろう。宇野常寛は、読者が動くことを期待している。ムーヴ、ムーヴ、ムーヴ。もちろん『ゼロ年代の想像力』をそのまま肯定しても構わないのだろうけれど、彼の意図としては、この疑問の
はじめに さる2007年6月5日に行われた東浩紀と伊藤剛の対談「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生へ』」のダイジェスト版と私的な感想をまとめた。すべてを網羅するのではなく、個人的に印象に残った部分のみを断片的に抜き出すようなかたちになっている。これは本エントリの目的が対談のレポートにあるのではなく、個人的な感想を述べることがメインになっているからである。 抜き出した部分にはこちらで勝手にタイトルをつけて、大まかな性格を与えた。まずは“1.『ゲーム的リアリズムの誕生』について”。ここでは、東浩紀自身が自著についての説明を行った箇所のみを引用している。本来は、対談の中での伊藤剛とのやり取りの一部分にすぎなかったものだ。しかし、『ゲーム的リアリズムの誕生』の読者にとってはある程度参考的な内容となるのではないかと思う。 “2.キャラクター文化にとっての美とは?”とその次の“3.
時をかける少女 限定版 [DVD] 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント発売日: 2007/04/20メディア: DVD購入: 2人 クリック: 193回この商品を含むブログ (435件) を見るこの作品には数多くの主題が見え隠れしている。第一に物語的主題、つまりストーリーレベルでのテーマがいくつも語られている。そして第二に構造的主題、簡単に言ってしまえばストーリー以外でのテーマが作品を貫くバックボーンとなって表れている。数多くの主題が編み上げられることによって、この感動的な現代版『時をかける少女』が構成されているといえる。しかし以下では、議論が発散してしまうことを避けるためにも、物語的主題と構造的主題の根幹となる部分/最も重要な箇所のみを取り上げて注目していきたい。 1.物語的主題 真琴の時間移動はタイムリープという言葉で表現されているが、実際には作中で本人が言っているように“リセ
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