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装丁を味わう
motomiyatakahiro.hatenablog.com
こんにちは。本宮貴大です。 この度は、記事を閲覧して頂き、本当にありがとうございます。 今回のテーマは「【資本主義とは?】資本家と労働者、どちらの生き方が得?」というお話です。 資本主義社会には「資本家」と「労働者」の2つの階級があります。今回は、そのどちらの生き方が得なのかを見ていきながら、資本主義のしくみを解説していきたいと思います。 この資本主義のしくみを理解しておかないと、日本史の、特に近代以降の理解が難しくなるので、是非、今回の記事でしっかりとマスターして欲しいと思います。 資本家 労働者 資本を持っている人 労働力を持っている人 富裕層 貧困層 経営者、起業家 サラリーマン、公務員 責任を負う 責任を負わずに済む 成果で稼ぐ 時間で稼ぐ 自由を愛する 安定を愛する ハイリスク・ハイリターン ローリスク・ローリターン 「人間は生まれながらにして自由で平等です。」 うん。これ以上な
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【三国干渉】なぜ日本は急速に軍事力を高めることが出来たのか」というお話です。 今回もストーリーを展開しながら三国干渉についての解説と、日露戦争を起こしたのは日本国民だったことについても触れていきたいと思います。 日清戦争によって日本が清国から譲り渡された遼東半島は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉によって清国に返還することになりました。これに日本国民は大激怒。政府は感情的になった国民の力を利用して明治維新以来の課題であった富国強兵を一気に達成させようとしました。日露戦争までの10年間の間、日本の軍事予算は全体の40%にまで跳ね上がました。 明治時代は、数多くの新聞や雑誌が刊行されるなど、ジャーナリズムが発達した時代でもあります。 徳富蘇峰(とくとみそほう)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストです。彼は平民主義の思想家で、井上馨(か
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【自由民権運動3】なぜ「明治14年の政変」が起きたのか【大隈重信】」というお話です。 自由民権運動とは、板垣退助らが中心となって政府に対し、憲法の制定や、参政権、国会の開設を求める政治運動のことです。 今回は自由民権運動の第3回目ということで、その後、民権運動はどうなったのかを解説していきたいと思います。さぁ、国会開設は実現するのでしょうか。(第2回目は以下のリンクから) それまで士族(武士)層中心だった自由民権運動は、やがて豪農層や商工業者にまで拡大しました。これに危機感を持った政府は豪農層や商工業者への懐柔策や弾圧策を講じました。しかし、民権運動は収まることなく拡大を続け、遂に板垣退助を党首とした一大自由主義政党として「自由党結成の盟約」を議決したのでした・・・。 motomiyatakahiro.hatenablog.com 民権運動の拡大
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【殖産興業】ブラック企業!?貧困女工が支えた日本の産業革命」というお話です。 日本の産業革命は、日清戦争の前後で第一次と第二次に分けることが出来ます。産業革命とは、それまで職人が手で作っていたモノを、機械を使ってつくるようになったということですが、それによって安価な製品が大量につくられたことで大量生産大量消費社会に転換していき、その分、人々の生活は豊かになったのです。 第一次産業革命の特徴は、製糸業や紡績業などの軽工業が中心なのに対し、第二次産業革命の特徴は、製鉄所や石炭生産などの重工業が中心であることです。 ということで、今回は明治初期~明治前半に渡って起きた日本の第一次産業革命について解説していきたいと思います。前半記事は「産業革命が起きる過程」を、後半記事は「貧困女工の労働条件について」の2部構成になっています。 富国強兵の大前提である殖産
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【大日本帝国憲法】なぜドイツの憲法を手本にしたのか【伊藤博文】」というお話です。 今回は「日本はなぜ、ドイツの憲法を手本にしたのか」に触れながら、大日本帝国憲法が発布されるにいたるまでのストーリーを紹介していこうと思います。 天皇を通じて国会開設を約束した政府は、憲法作成に乗り出します。その際、政府の最大の目的は、「天皇の権限を利用して、人民を支配すること」です。一方、国内では自由民権運動が盛り上がりを見せ、フランス流の自由党、イギリス流の立憲改進党が結成されました。これに対抗するべく政府はドイツの君主制の強い憲法に着目し、その目的を果たそうとしたのです。 幕末の革命で、徳川将軍家から政権を奪った明治政府ですが、彼らは「尊王」という大義名分のもと、倒幕を図りました。彼らが目指したのは、天皇を中心とする国家体制であり、もっと言うと、「天皇の権限を利
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【日清戦争】勝利した日本が失ったものとは」というお話です。 日本と清は朝鮮をめぐって対立し、1894年、両者は日清戦争に突入しました。 日清戦争の舞台となった国はどこか知っていますか。 「日清戦争」という言葉に惑わされて、日本か中国、どちらかが戦場になったと思いがちです。日本ではないことは確かだから中国ではないか・・・。 確かに、黄海戦線や威海衛開戦など海軍同士は中国沿岸部で衝突しました。 しかし、陸軍が主に清国と衝突したのは朝鮮半島です。 日清戦争とは、日本と中国の間に位置する朝鮮半島で行われました。 1894年に勃発した日清戦争は結局、8カ月の戦闘の後、日本の圧勝で終了します。日清戦争に勝利した日本は、何を得て、何を失ったのでしょうか。 日本は清国を朝鮮から撤退させ、朝鮮を独立国と認めさせたうえで、清国から遼東(りょうとう)半島、澎湖(ほうこ
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【日清戦争】なぜ日本と清は朝鮮をめぐって対立したのか」というお話です。 日清戦争はなぜ起きたのでしょうか。 日清戦争をテーマにした「漁夫の利」風刺画では、朝鮮と書かれた魚を釣り上げようと日本と清国が対立しているところを、横取りをたくらむロシアがじっと見守るというロシアの野心が表現されています。 なぜ、日本は朝鮮を支配下にしようと考えたのでしょうか。それについては前回の記事を参照ください。 motomiyatakahiro.hatenablog.com 日本と清国は、朝鮮をめぐって激しく対立しました。それが朝鮮半島での甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が勃発するのですが、今回は、「なぜ日本と清は朝鮮をめぐって対立したのか」を見ていきながら、ストーリーを展開していきたいと思います。 日本はとにかく朝鮮を支配下に置くこと目指しました。しかし、日本との不平
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【高給取り!?】明治時代のお雇い外国人の皆さん(産業技術編)」というお話です。 幕末の革命によって徳川将軍家から政権を奪うことが出来た明治政府の最重要課題は、欧米列強と対等な独立国としての近代国家の建設でした。そこで、明治政府は海外から外国人を雇い入れ、彼らから技術や知識を学ぶことで近代化政策や人材育成を図った。彼らのことを「お雇い外国人」と言います。 「和魂洋才」とは幕末の蘭学者・佐久間象山の言葉ですが、西洋の才(技術)は謙虚に受け入れても、日本の魂は決して見失ってはいけないという精神のもと、明治人は、文明開化をスローガンに独立国としての日本を実現するために奮闘しました。 ということで、今回は明治時代に来日したお雇い外国人についてご紹介します。 今回紹介するお雇い外国人は以下の5名です。 製鉄・造船 ヴェルニー (フランス) 鉄道
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【学制公布】なぜ明治時代の就学率は急増したのか」というお話です。 江戸時代までは身分制度が強固であり、立身出世はありえませんでした。しかし、明治時代になり、身分制度が撤廃され、四民平等となりました。福沢諭吉は著書『学問のすすめ』で貧富の差は勉強したか否かの違いであると説きます。誰でも立身出世が出来る時代になったことで、当時の若者は奮い立ち、日本に教育熱が巻き起ったのです。 近代国家を有効に進めるには、国民の知識水準を高めることは必須でした。そこで、政府は、全ての国民は等しく教育受けるべきだとする「国民皆学」を目指した教育制度の充実に力を注ぎます。 その手初めとして政府は、1871(明治4)年、教育行政を担当する文部省を設置します。その翌年、学制が公布されます。これによって、フランス式の教育制度を範とし、全国を8大学区にわけ、それをさらに32中学区
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【明治維新】新政府の最初の課題とは?」というお話です。 今回から明治時代を紹介していきたいと思います。戊辰戦争という内乱が続く中、発足された新政府の最初の課題とは何だったのでしょうか。今回もストーリーを展開しながら、そんな新政府の明治維新について紹介したいと思います。 徳川将軍家から政権交代した明治政府はまず、武士階級の解体に取り組みます。版籍奉還は旧体制に限界を感じていた諸藩はすんなりと受け入れます。しかし、廃藩置県は一かハかのクーデターだったのです。 戊辰戦争の中、新政府は1868(明治1)年早々、明治天皇の名前で五ヶ条の御誓文で今後の方針を発表しました。首都は京都から江戸に移され、同年10月、天皇は江戸城に入ります。そして江戸は東京と改名され、江戸城も東京城と改名され、そのまま天皇の皇居として現在にいたります。 さて、幕末の革命によって徳川
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【岩倉使節団】彼らは欧米で何を見てきたのか【岩倉具視】」というお話です。 今回は、岩倉使節団による欧米視察ということで、日本史と世界史のクロスオーバー作品になります。 是非、最後まで読んでいただきますよう、よろしくお願いします。 岩倉使節団は条約改正と西欧文明の視察を目的に横浜港を出港します。しかし、岩倉らは条約改正を断念し、目的を西欧文明の視察のみに集中しました。この頃、西欧諸国も、フランス帝国の崩壊やドイツ帝国の誕生など変革期を迎えていました。 1871年(明治4年)に廃藩置県を達成し、全国を完全に新政府の直轄地とすることが出来ました。国内での中央集権国家の確立に目途がたったところで、今度は対外政策です。 明治政府には大きな課題がありました。条約改正です。江戸時代末期にアメリカと日米修好通商条約を締結したことをはじめ、列強諸国と通商条約を締結
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【学問のすすめ】福沢諭吉がアメリカで発見した素晴らしい概念とは」というお話です。 西洋の文明を学ぶため 福沢諭吉は勝海舟らと共にアメリカに渡ります。そこで諭吉は素晴らしい概念を見つけます。「どうやらアメリカには平等という概念があるようだ。」彼はアメリカ独立宣言を引用し、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名はセリフを残しました。この概念は当時の人々には画期的で著書『学問のすすめ』は空前の大ベストセラーとなりました。 日本で最初に太平洋横断を達成した人達をご存じでしょうか。実は明治の岩倉使節団の10年前に太平洋横断に成功しているのです。 それが勝海舟を艦長とした咸臨丸(かいりんまる)です。今回は咸臨丸に同乗した福沢諭吉のストーリーを展開していきたいと思います。 1853年のペリー来航以来、日本も西洋の技術を取り入れ、列強と同等の立
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【社会契約説】政府は不要!?なぜロックは政府を必要悪とみなしたのか」というお話です。 今回の主人公は社会契約説の2人目であるイギリスの思想家、ジョン・ロック(1632~1704)です。 その上で、「政府は不要!?なぜロックは政府を必要悪とみなしたのか」を見ていきながら、ストーリーを展開していきたいと思います。 本題に入る前に社会契約説における前提知識を復習しておきます。 私達は一人で生きていくことは出来ません。 そこで人々は社会を形成し、みんながそれぞれの役割分担をするようになりました。しかし、社会を作った以上、集団生活となるため、必要最低限のルールや決まりを守らなければいけません。このような人間が生きていく上で必要最低限のルールや決まり、法律のことを「自然法」と言います。 同時に人間には以下のような欲求があります。 「安心して暮らしたい」 「自
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【社会契約説】なぜホッブズは絶対王政を支持したのか」というお話です。 今回の主人公は社会契約説の先駆者であるイギリスの思想家であるトマス・ホッブス(1588~1679)です。 その上で、「なぜホップズは絶対王政を擁護したのかを見ていきながら、ストーリーを展開していきたいと思います。 本題に入る前に社会契約説における前提知識を復習しておきます。 突然ですが、あなたはたった一人で生活することが出来ますか。想像してみてください。一人で食料や飲み水を確保しなければならなかったり、洋服や住居も一人でつくらなければいけません。 どうでしょう。きっと限界があるはずです。 そこで人々は社会を形成し、みんながそれぞれの役割分担をするようになりました。そうすれば、みんなに食べ物が安定的に供給され、洋服や住居も、もれなく行き渡ります。 しかし、社会を作った以上、集団生
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【社会契約説】市民革命を現実化してしまった思想」というお話です。 社会契約説とは何でしょうか。 簡単に説明します。 社会契約説とは『契約』という言葉が含まれていますが、誰かと誰かが約束をしているのです。 誰と誰でしょうか。そう、国家と国民です。 では、その両者は互いに何を約束しているのでしょうか。 そう、自由と平等です。国家は国民の自由と平等を約束するために権力が与えられ、国民もその権力を国家に委ねているのです。 なぜこのような思想が生まれ、当時の社会にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。今回は社会契約説の生まれた経緯と、社会におよぼした影響を説明したいと思います。 社会契約説とは啓蒙思想と自然法思想が融合したことで誕生した思想です。自然法思想とは、人間が生まれながらに持っている自由と平等の精神のことで、この思想を後ろ盾にアメリカ独立革命やフラ
おはようございます。本宮貴大です。 あけましておめでとうございます。 2018年も面白くて、ためになる記事をたくさん更新してまいります。 今年もどうぞよろしくお願いします。 本宮でした。それでは。
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【宗教改革】カルヴァンの思想はなぜ資本主義を発達させたのか」というお話です。 プロテスタント(新教)にはルター派の他に、スイスの宗教家であるカルヴァンによるカルヴァン派も生まれました。カルヴァンは予定説を唱え、ルター派同様に職業召命観も示しました。それは「お金儲けは卑しい行為ではない。堂々とお金儲けをしなさい」という思想で、商工業者を中心にヨーロッパ各地に広まり、資本主義の発達を促しました。 ドイツではルターが宗教改革を起こしたことで、カトリック(旧教)から独立してプロテスタント(新教)がルター派として生まれました。ドイツではルターとローマ皇帝カール5世によるシュマルカルデン戦争が勃発しますが、結局、1555年にアウクスブルクの宗教和議によってドイツでは諸派の信仰の自由が認められました。 motomiyatakahiro.hatenablog.c
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【宗教改革】なぜイギリス国教会が成立したのか」というお話です。 ヨーロッパで起きた宗教改革によってカトリック(旧教)から独立し、プロテスタント(新教)が誕生しました。 ドイツではルター派が、スイスやフランスではカルヴァン派がプロテスタントとして誕生。そしてイギリスでもカトリックから独立し、イギリス国教会がプロテスタントとして成立しました。 ということで、今回の舞台はイギリスです。なぜイギリス国教会が誕生したのかをご紹介しながら時代のストーリーを展開していきたいと思います。 よく勘違いされていることですが、現在のイギリスはイングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランドの連合国です。日本の「世界史」ではほぼイングランドについて語られているため、以下イングランド国教会と呼ぶことにします。 イングランド国王のヘンリ8世は自らの離婚を理由にカトリ
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【ガリレオ】天動説から地動説へ(後篇)」というお話です。 ガリレオは実験や観察を通じ、地球は動いていることを提唱。従来の神が意図した自然を探求しようとする目的論的自然観を取り払い、どのような自然法則で動いているかという機械論的自然観の立場から自然をとらえ直そうとします。ガリレオは「地球はうごいている」ことを発表するも、キリスト教会から迫害を受けてしまいます。 15世紀~16世紀、日本では1467年の応仁の乱をきっかけに戦国時代が到来し、人々が熱狂していた頃、西洋ではイタリア(フィレンチェ)でルネサンスの時代が到来し、その気運はヨーロッパ各地に広がっていました。 ルネサンスが到来したことで、天上界や地上界などの神が創造したとされる自然観を取り払い、実験や観察などの人間の感覚によって自然をとらえ直そうとする気運が高まりました。すなわち、新しい学問の土
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【安藤昌益】封建社会を批判し、ユートピア社会を提唱した学者」というお話です。 江戸時代は様々な学問が発達した時代です。その代表例は儒学とよばれるもので、 孔子の思想を朱熹という人物が解釈した幕府公認の学問・朱子学。 孔子の思想を王陽明という人物が解釈した民間を中心に普及した学問・陽明学。 さらに、孔子の思想を直接研究しようとうする学問・古学も登場しました。 古学派に属し、古文辞学の創始者である荻生徂徠は、『論語』の教えはという政治の在り方を示したものであると説き、それは、「世を経(すく)い、民を守る」という経世済民の術であり、経済の活性化こそが天下安泰の世を実現するために必要であると唱えました。 やがて、荻生徂徠の系統から太宰春台という人物が現れ、彼は著書「経済録」で経済の重要性を日本で初めて提唱。経世論者の先駆けとなるのでした。 江戸時代も中期
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【西洋の科学】江戸時代の理系学問 蘭学とは【杉田玄白】」というお話です。 江戸時代は様々な学問が発達した時代です。 その代表例は儒学とよばれるものです。孔子の思想を朱熹という人物が解釈した幕府公認の学問・朱子学。孔子の思想を王陽明という人物が解釈した民間を中心に普及した学問・陽明学。さらに、孔子の思想を直接研究しようとうする学問・古学も登場しました。 そして儒学そのものを排除し、日本古来の学問を研究する国学も登場してきました。 しかし、これらはいずれも道徳・思想・考え方であり、現代風に言うと文系学問です。 江戸時代も後半になると、洋学がさかんになってきます。すなわち、科学技術の面においては西洋の学問を取り入れようとする動きがさかんになってきます。現代風に言うと理系学問です。江戸時代の洋学とは蘭学のことで、オランダは当時の西洋唯一の窓口であり、西洋
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【荻生徂徠】朱子学を批判した学問 古文辞学」というお話です。 江戸時代に発達した学問といえば、「儒学」です。鎌倉時代に仏教が日本で発展したように、江戸時代も儒学が日本で発展しました。 しかし、一口に儒学といっても日本で流行したのは大きく3系統に分けられます。 それは「朱子学派」と「陽明学派」、そして「古学派」です。 「儒学」とは中国の孔子の教えをまとめた『論語』を解釈した学問ですが、朱子学や陽明学はその弟子達が解釈した学問になります。朱子学なら朱熹という人が、陽明学なら王陽明という人が解釈した学問です。 そして日本では朱子学を林羅山が、陽明学を中江藤樹が受容し、体系化していきました。 しかし、孔子の教えを朱熹や王陽明などの弟子の解釈から間接的に学ぶのではなく、孔子の教えを直接学ぼうとする人々が現れました。これが古学派の人達になります。以下、儒学3
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【山鹿素行】武士道と士道はどう違うのか【古学】」というお話です。 今回は江戸時代でやり残した部分をやります。江戸時代の思想についてです。 江戸時代に発達した学問といえば、「儒学」です。鎌倉時代に仏教が日本で発展したように、江戸時代も儒学が日本で発展しました。 しかし、一口に儒学といっても日本で流行したのは大きく3系統に分けられます。 それは「朱子学派」と「陽明学派」、そして今回紹介する「古学派」です。 「儒学」とは中国の孔子の教えをまとめた『論語』を解釈した学問ですが、朱子学や陽明学はその弟子達が解釈した学問になります。朱子学なら朱熹という人が、陽明学なら王陽明という人が解釈した学問です。 そして日本では朱子学を林羅山が、陽明学を中江藤樹が受容し、体系化していきました。しかし、孔子の教えを朱熹や王陽明などの弟子の解釈から間接的に学ぶのではなく、孔
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【新撰組誕生】なぜ新撰組が組織されたのか【松平容平】」というお話です。 時の老中・堀田正睦(ほったまさよし)が朝廷の政治介入のきっかけをつくって以来、政治の中心として江戸から京都に注目度が高まるようになりました。京都の町では長州藩を代表とする尊王攘夷派が勢力を拡大。自分達と主義主張が異なる人物や外国人を殺害する「天誅(てんちゅう)」と呼ばれるテロ行為を開始するのでした。 1854年、日本はペリー来航を機に日米和親条約を結び、それまでの鎖国制度が破られ、開国をしました。しかし、貿易開始については先送りにされました。 そして1858年、タウンゼント・ハリスが在日アメリカ公使として下田に到着。ハリスは幕府を相手に貿易開始のための日米修好通商条約の締結交渉を開始しました。 時の老中・堀田正睦は世論には通商条約締結に反対意見が多いことを理由に、朝廷から勅許
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【吉田松陰】テロリストと呼ばれた幕末の変革型指導者(後編)」というお話です。 前回に引き続き、吉田松陰という人物を取り上げ、変革型指導者についてみていくことにしましょう。 吉田松陰は、幕末を代表する変革型指導者であることは間違いありません。変革型指導者とは、現状維持や改善・改良をするのではなく、抜本的に組織を変えるリーダーのことです。以下、変革型指導者の6つの特徴を列挙します。 (1)自ら変革の推進を行う。(率先推進) (2)現状に向きあい、果敢に立ち向かう(勇気がある) (3)一貫した価値基準で動く(価値基準や信念がはっきりしているため、迷いがない) (4)人にやる気を起こさせる。 (5)生涯に渡って学び続ける(自己啓発に貪欲である) (6)ビジョンを追う。(夢を描き、夢を語り、みんなと共有出来る。) 1851年に長州藩を脱藩し、東北に旅に出た
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「幕末の志士を育てた人物幕末の英傑を育成したグレートティーチャー【吉田松陰】(前編)」というお話です。 お待たせしました。 長州藩を取り扱う上で、この人物を紹介しておくべきだと思い取り上げました。 1857年長州藩士の吉田松陰は‘謹慎中‘に実家の小屋を改築し、松下村塾と呼ばれる私塾を開きました。 子鳥がさえずる早朝、長州藩士である久坂玄瑞は、松下村塾の塾生として、今日も松陰先生の熱い授業を受けに向かいました。 塾に着いた玄瑞は、松陰と一人の門下生によるマンツーマンの講義が行われていることに気付きます。 「こんな早くから先生と彼はどんな講義をしているんだろう。」 玄瑞は興味本位でその講義をしばらく聞いて見ることにしました。 「楠木正成は、南朝と北朝という天皇が2人いる不安定な時代を生き・・・」 講義内容はどうやら南北朝時代に活躍した楠木正成という人物
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【気質紹介】多血質タイプB サポーター(感覚・思考・柔軟型)」です。 今回は多血質タイプB サポーターの紹介です。 最初に多血質全体のタイプ軽く紹介してからサポーターの紹介をしたいと思います。 多血質(感覚・柔軟型) 別名:職人気質 多血質(感覚・柔軟型)の共通点 感覚型であるため、現実世界のあらゆることに楽しみをみつけ、ワクワクするものや面白いものが大好き。大変陽気で、社交性に富み、考えるより、まず行動ありきの人達。柔軟型でもあるため、たくさんの人、たくさんの意見、たくさんの価値観を受け入れます。フットワークも軽いため、様々なことを体験しようとします。多血質はタイプAのスター(感覚・情緒・柔軟型)とタイプBのマネージャー(感覚・思考・柔軟型)に分類出来ます。 そんな多血質タイプBのサポーターが最も才能を発揮するのは、ズバリ、リーダーがゼロから立
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【開国】ペリーはなぜ日本にやってきたのか。【マシュー・カルブレイス・ペリー】」というお話です。 1853年、アメリカから東インド艦隊司令長官のペリーが来航します。日本は、アジア貿易における食料や石炭などの補給基地の建設には絶好の位置にありました。世界の航路を独占するイギリスの勢力が日本に及ぶ前に何とか日本を手中に収めたかったのです。 青い太平洋の端に浮かぶ小さな島国。4つの大きな島と4千を超える小さな島々からなり、冬には数メートルの深さまで雪が積もる北の国から、サンゴ礁の浜辺に揺れる南国まで存在し、アジア大陸の東側に孤を描くように連なっている。 春には桜が咲き、秋には紅葉が深まる。自然の景観は四季折々にその表情を変え、人々に感動を与えます。 北からの寒流と、南からの暖流とが沿岸で合流するため、魚介類が集まり、沢山の海の幸をもたらします。国民はそん
こんにちは。本宮貴大です。 今回のテーマは「【閲覧注意】なぜ国家資格を取っても食えないのか。【政治・経済】」というお話です。 今回は、申し訳ないですが、国家資格取得を目指して勉強されている方はお気を悪くされると思うので、読まないでください。 一級建築士という国家資格をご存じでしょうか。一度は聞いたことがあると思います。 素人の方なら、「一級建築士はさぞ高給取りなんだろうな。」と思うかも知れません。 意外かも知れませんが、実は私、以前は建設業界にいた人間です。業界では常識ですが、一級建築士は「足の裏についた米粒」と比喩されています。つまり、「取らないと気持ち悪いけど、取っても食えない。」という意味です。 一級建築士は間違いなく、「食えない国家資格のベスト10」に入っています。 なぜ一級建築士は食えない国家資格になっているのでしょうか。理由は以下の3つです。 1.建設需要が右肩下がりだから。(
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