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直江状 - Wikipedia
直江状(なおえじょう)は、慶長5年(1600年)に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉... 直江状(なおえじょう)は、慶長5年(1600年)に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に送った書簡。関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされるが、偽文書ではないが後世に大幅に改竄されたとする説がある。 概要[編集] 慶長5年2月、越後領主堀秀治は上杉景勝が武備を整えて謀叛の兆候があると訴え出た。当時政権を握っていた五大老筆頭徳川家康は伊奈昭綱を派遣して上洛を勧告したが、景勝は応じなかった。3月には上杉家重臣藤田信吉が出奔し、景勝の叛意を訴えた。家康は西笑承兌に「謀叛の噂が流れている」として早期の上洛を勧める手紙を書かせ、昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)に託した。二人は直江状の記述によると4月13日に会津に到着した[1]。兼続は4月14日付で上洛を拒絶する手紙を送り、会津攻めは決定的となった。この際に兼続が送った手紙が直江状
2017/11/12 リンク