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濃州山中にて一戦に及び(17)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
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濃州山中にて一戦に及び(17)【第二部】 - 黒田官兵衛の野望
えーこんにちは 関ケ原本戦に入ってからわりとだらけるかと思ったら、意外とサクサク進みます(筆が) ... えーこんにちは 関ケ原本戦に入ってからわりとだらけるかと思ったら、意外とサクサク進みます(筆が) 本稿では、家康の小山評定なるものは存在しなかったという仮定の下、進めさせていただきます。 細川討伐と伏見城攻めをもって西軍は軍事行動を開始した。編成は以下の通りである。 伏見城攻撃部隊・・・宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長、大谷吉継、毛利秀元、島津義弘、長曾我部盛親、立花宗茂 細川討伐部隊・・・小野木重勝、織田信包、前田茂勝 西軍の基本作戦は、まず畿内の制圧と安定であった。家康が西進してくることを予想し、美濃尾張までを制圧して防衛線としつつ、畿内全体に巨大な補給線を張り巡らして戦うという作戦を立てていた。 この作戦を立てたのは石田三成であった。彼は軍事戦略に関して、補給を中心に考える点、多分に近代的な考えを持っていたといっていい。この時代の戦いにおいて、補給を中心に据えた戦略はいまだ一般的では