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雑学
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「首飾り事件」の首飾りのデザイン画 「首飾り事件」の発覚 1785年夏、王妃マリー・アントワネットは、ボーマルシェ作の喜劇『セビリアの理髪師』を、プチ・トリアノン宮殿の自分専用の劇場で、自ら上演するのに夢中になっていました。 ベルタン嬢にコスチュームを作らせ、コメディ・フランセーズの演出家を呼んで、演技指導を受け、稽古に励んでいました。 ところがある日、首席侍女のカンパン夫人が稽古に遅刻してきました。 どうしたの、と問うと、トラブル発生です、という報告。 出入りのユダヤ人宝石商人ベーマーがやって来て、『王妃が分割払いで購入した非常に高価なダイヤモンドの首飾りの支払いがないので、このままでは破産です』と泣きついてきて、王妃様に謁見を求めています、とのこと。 マリー・アントワネットは首をかしげます。 そんな首飾りなんか買った覚えがないのです。 そういえば、ベーマーは以前、ルイ15世がデュ・バリ
『セビリアの理髪師』の一場面 「フィガロ三部作」の第一作 1772年、ボーマルシェは、かつて妹の名誉を救うために滞在し、元婚約者と裁判で闘った地、スペインでの体験をもとに、オペラ・コミック『セビリアの理髪師 または無益の用心』を書きました。 これがイタリア劇団から上演を断られたあと、喜劇として作り直し、コメディ・フランセーズに持ち込みました。 いったん上演が決まったものの、ボーマルシェはショーヌ公爵やグズマン判事との係争を抱え、当局からトラブルメーカーと目されて上演は禁止。 その後、王の密使としての仕事が忙しく、この作品は放っておかれましたが、1775年にようやく初演ができました。 なかなか上演できなかった〝訳あり〟の前評判もあって、客入りは上々でしたが、初演は失敗。 ボーマルシェは、上演の間際になって、なぜか突然4幕の原作を5幕に改変したところ、冗長になってしまい、観客が飽きてしまったの
ヨークタウンの戦いでフランス軍(左)、アメリカ軍(右)に降伏する英国コーンウォリス将軍 風雲急を告げる新大陸 王や王妃のスキャンダル暴露防止のため、王の密使となって度々英国に乗り込んで活動したボーマルシェ。 彼が次にのめり込んだのは、なんとアメリカ独立の支援でした。 『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』の作者が、ここまで歴史に食い込んでいたとはあまり知られていないでしょう。 当時、フランスは七年戦争で英国に負け、特にアメリカ新大陸の植民地をかなり英国に奪われてしまいました。 また、ドーバー海峡に面したフランス領、ダンケルク要塞の破却も、パリ講和条約で決められ、さらに英国監視官の常駐まで認めさせられていました。 山師ボーマルシェは、フランスの国益=自分の利益と考えていたので、なんとか英国に打撃を与えたいと考えていました。 1773年、茶法によって、英国東インド会社が直接アメリカ植民地に紅茶
ボーマルシェ 国王最後の愛人のスキャンダル グズマン判事と自分との裁判について、そのいきさつや経過を逐一出版して、世論を味方につけたボーマルシェ。 結果、パリ高等法院で勝訴を勝ち取ります。 そして一躍、ジャーナリストのような有名人となります。 そんなボーマルシェに、なんと国王ルイ15世から密命が下ります。 王は、出版という危険な手段で世論を操作するボーマルシェに危険を感じていましたが、逆にその力を利用しようと考えたのです。 すでに晩年となっていたルイ15世は、デュ・バリー夫人を最後の愛妾にしていましたが、ロンドンに亡命したモランドというフランス人が、ふたりのスキャンダルを書いた文書を出版する、と、夫人を脅してきたのです。 フランス王の愛妾は「公妾」という公然のものでしたので、そんな「文春砲」など怖くないはずですが、猥褻な内容らしく、娼婦出身の夫人ではありますが、自分の名誉のためにも「何とか
プチ・トリアノンの「王妃の劇場」 王妃の作った「演劇部」 1779年、王妃マリー・アントワネットはお芝居づいていました。 パリのオペラ座でやっている演劇やオペラを、自分とその取り巻きで上演しようというのです。 さながら、自ら部長を務める「宮廷演劇部」を創る、といった感じです。 音楽好きのハプスブルク家では、先祖の〝バロック大帝〟レオポルト1世が自らオペラを作曲、オーケストラを指揮、また時には舞台に立つほどで、その子孫たちも、祝い事などでの余興で演技をすることはよくありました。 皇帝ヨーゼフ2世の再婚の祝典オペラでは、弟レオポルト2世が指揮し、妹マリー・アントワネットも舞台に出ました。 そして拍手喝采を浴びた体験が忘れられず、演劇の本場フランスでもやってみたい、と思ったのでしょう。 そして、自分の城、プチ・トリアノン宮殿に、これまた自分専用の劇場を造ろう、と思いつきます。 ヨーゼフ2世再婚記
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『自画像』(1781年) 宮廷画家が語る、王妃の気さくな優しさ エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが最初に王妃マリー・アントワネットの前に通されたとき、彼女は緊張に震えました。 しかし、王妃が優しく話しかけてくれたお陰で、緊張はすぐに解けたそうです。*1 ルイーズ(ヴィジェ・ルブラン)は回顧録で『お妃様に会ったことのない人に、優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美しさを伝えることはむずかしい。』と述懐しています。 1783年から87年にかけて、ルイーズは王妃の肖像画を4枚書きましたが、王妃は彼女が美しい声の持ち主であることを知ると、当時オペラ・コミックの大家としてヒット作をガンガン飛ばしていた作曲家、グレトリの作品を一緒に歌ったということです。 あるとき、妊娠中のルイーズは王妃の絵を描く約束の日に、つわりがひどく、ヴェルサイユに行けなかったことがあ
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『白いサテンのパニエ入りのドレスに身を包むマリー・アントワネット王妃』(1778年) 仕切り直した王妃の肖像画 ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーティエ=ダゴティが描いたマリー・アントワネットの肖像画『盛装するマリー・アントワネット王妃』が、王に対して不敬であると、散々な評判だったことは前回取り上げました。 宮廷では、新しく王妃の肖像画を制作することにし、画家として、女性画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)に白羽の矢を立てました。 出来た作品は、『白いサテンのパニエ入りのドレスに身を包むマリー・アントワネット王妃』。 この絵の王妃は、大きなダチョウの羽のついた帽子を被り、パニエの入った白いサテンのドレスを着ています。 画面右手には、正義の偶像が刻まれた台の上、王妃の頭上のずっと高いところにルイ16世の胸像が置かれて
ルイ16世、マリー・アントワネットの長女、マリー・テレーズ・シャルロット(通称マダム・ロワイヤル) 実を結んだ、兄の忠告 マリー・アントワネットの物語に戻ります。 兄の神聖ローマ皇帝、ヨーゼフ2世がパリに来訪し、妹である王妃マリー・アントワネットには贅沢三昧、娯楽三昧の生活を改めるように、とお説教。 その夫、義弟であるフランス王ルイ16世には、子供を作れるよう、手術を受けるように勧めて、帰国します。 妹への説教はあまり効果はありませんでしたが、義弟への勧告はすぐに功を奏しました。 素直な国王は、義兄のセンシティブな忠告に従い、ついに手術を受けたのです。 その結果、この新婚7年目の夫婦は、ようやく完全な夫婦となりました。 この、本来は夫婦だけの秘密事項は、各国大使によって全ヨーロッパに伝えられました。 その日付は1777年8月25日ということまで明らかになっています。 しかし、夫婦のすれ違い
母を殺したオレステスを責める復讐の女神 トロイア戦争の結末 マリー・アントワネットゆかりのオペラ、グルックの『トーリードのイフィジェニー』。 ギリシャ神話に基づいた物語は、いよいよクライマックスです。 イピゲネイア(イフィジェニー)の実家、ミケーネ王家では、彼女が遠く離れたタウリス(トーリード)にいる間に、凄惨な事件が起きていました。 まだ、イピゲネイアは知る由もありませんが、悪夢から、不吉な予感に苛まれています。 いったい何が起きたのでしょうか。 イピゲネイアが犠牲になることによって、ギリシャ軍の大船団は、トロイアに向けて出帆することができました。 しかし、トロイア戦争は実に10年もかかったのです。 それは、オリンポスの神々が、てんでバラバラに、ギリシャ側、トロイア側に味方したり、途中で見限ったりしたのも原因のひとつでした。 日本の応仁の乱で、足利将軍が風向きによって、西軍についたり東軍
プチ・トリアノン宮殿 夫王から「宮殿」のプレゼント 即位からしばらくして、20歳のフランス国王ルイ16世は、19歳の王妃マリー・アントワネットに、プレゼントをあげます。 それは、ひとつの「宮殿」。 プチ・トリアノンです。 ただ、宮殿といっても、大きさはそれほど豪壮なものではなく、8つの居室にダイニングルーム、大小の客間、寝室に浴室、そして小さな図書室といった間取りで、現代のセレブでも持っているような「豪邸」といった規模です。 もともとは、先代のルイ15世が公妾ポンパドゥール夫人のために建設し始めましたが、完成前に夫人は逝去してしまい、新たに愛妾となったデュ・バリー夫人に与えられました。 居住のための宮殿というよりは、王が愛人との情事を楽しむために作られた、ラブホテルのような施設でした。 例えば、食事の際に召使いを遠ざけるため、地下の台所から、セッティングされたテーブルがそのままダイニングル
イピゲネイアに扮したマリー・アントワネット 王妃になった喜びを隠せない娘 先代のフランス王、ルイ15世が世を去り、ついに王妃となったマリー・アントワネット。 義祖父の死を、オーストリアにいる母帝マリア・テレジアに知らせる手紙には、前半には悲しみが綴られているものの、後半は、晴れて王妃となった喜びが隠し切れていません。 マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ 1774年5月14日 愛するお母様 私たちの不幸にまつわるもろもろの事柄につきましては、メルシーがご報告いたしたことと存じます。この恐ろしい病気は、幸いなことに最後まで陛下の理性を曇らせることはなく、ご臨終は神への帰依の心を強固にさせるものでございました。新国王は国民の心をつかんでおいでと見受けられます。祖父様が世を去る二日前に、世継ぎの王太子は20万ふらんを貧者に分け与えるよう指示なさいましたが、これがまことに良い印象をあたえま
新国王・王妃を祝う装飾画 国王崩御、国王ばんざい! グルックの新作オペラ、『オーリードのイフィジェニー』が上演された1774年4月19日。 それから20日ほど過ぎた5月10日午後3時15分。 国王ルイ15世が天然痘で薨去します。 誰もが固唾をのんで、時計を見つめながら待っていた瞬間でした。 ひとつの時代が終わり、新しい時代がやってきた―――! 人々は、遺骸のまだ温かい先王の部屋から雪崩を打って飛び出し、ドヤドヤと、控えの間に詰めかけます。 その小さな部屋には、王太子と王太子妃が控えています。 扉が開け放たれ、最初に入ってきたのは、女官長ノアイユ伯爵夫人。 ふたりの前に跪き、『国王崩御、国王ばんざい!』と挨拶します。 これで、新王ルイ16世と、新王妃マリー・アントワネットが誕生しました。 太鼓が連打され、何百人もの将校や廷臣たちも叫びます。 『国王崩御、国王ばんざい!』 これは、代替わりの慣
フランソワ=ユベール・ドゥルエ『フランス国王ルイ15世』(1773年) オペラ初演8日後のできごと グルックの新作オペラ、『オーリードのイフィジェニー』が、王太子妃マリー・アントワネットの強い後ろ盾のもと、半ば強引に初演され、半ば強引に「大成功」とされ、音楽史上に「オペラ改革」の画期として刻まれた日が、1774年4月19日。 そして、その8日後の4月27日。 国王ルイ15世が、狩猟中に急に脱力感と激しい頭痛に襲われます。 ヴェルサイユに戻り、ベッドに入った国王の脈を、多くの侍医がかわるがわる診ます。 これといって病名は特定できませんでしたが、夜になって、王の顔に赤い斑点を見つけます。 当時、死の疫病として恐れられていた天然痘でした。 天然痘はかつてハプスブルク家も襲い、マリー・アントワネットがフランスに嫁ぐことになったのも、姉たちがこの伝染病で亡くなり、順番が回ってきたからでした。 公妾の
『アガメムノンの黄金のマスク』シュリーマンがミケーネ遺跡で発掘、アガメムノン王の遺骸にかぶせられたマスクと考えたが、実際にはアガメムノンの時代より300年以上古いもの。 グルックの偉大さとは それでは、グルックのオペラ、『オーリードのイフィジェニー』の幕を開けましょう。 この画期的な「改革オペラ」には、娯楽要素は少なく、それぞれの登場人物の内面の苦悩、葛藤を表現することに主眼が置かれています。 イタリア・オペラのように、きっぱりと歌とせりふ、すなわちアリアとレチタティーヴォは分かたれておらず、全ての言葉にオーケストラによって劇的な伴奏がつけられている「音楽ドラマ」になっているのです。 グルックの音楽史における功績については、音楽学者アルフレート・アインシュタイン (1880-1952)が1952年に著した名著、『音楽史』に次のように書かれています。(一部現代語風にしています) オペラの真の
マリー・アントワネットに新作『オーリードのイフィジェニー』の楽譜を手渡すグルック パリでぶち上げた、オペラ改革! 前回まで、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』を聴きました。 これは現在ポピュラーに上演される、グルックの唯一の作品といってよいでしょう。 クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は古典音楽の巨匠と讃えられ、「オペラ改革」を成し遂げた音楽史上の偉人ですが、その作品の多くはほとんど演奏されておらず、よほどのクラシックファンでもあまり聴いたことがないと思われます。 このブログでは、彼の音楽がマリー・アントワネットとの関りの中で果たした、大きな歴史的役割に思いを馳せながら、味わってみたいと思います。 『オルフェオとエウリディーチェ』は、1774年に王妃マリー・アントワネットの肝いりでパリで上演されましたが、新作ではなく、もともと1762年にウィーンで上演さ
カール・グース『オルフェウスとエウリディケ』 エウリディーチェを失って、どうしよう 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第3幕の後半、最終回です。 亡き愛妻エウリディケを取り戻すべく、冥界に降りたオルフェウス。 その音楽の力で冥界の神や怪物たちの心を融かし、『地上の人間界に戻るまで、決して妻の顔を見てはならない』という条件つきで、妻を返してもらいました。 しかし、地上に向かう途上、自分を抱きしめるどころか目も合わせない夫に、妻は疑念と不信感を募らせます。 追及と泣き落としに耐えかねたオルフェウスは、ついに振り返って妻の顔を見てしまいます。 すると、掟を破った罰で、エウリディケは再び死んでしまいます。 これまでの苦労は水の泡。 愛ゆえに妻を取り戻し、愛ゆえに再び失ってしまったオルフェウス。 やるせない気持ちを歌うのが、このオペラで一番有名なアリア、『ケファロ・センツァ・エ
音楽の力を讃える音楽 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕の後半です。 亡き愛妻エウリディケを取り戻すべく、生きた人間が決して行ってはいけない冥界に降りていったオルフェウス。 襲いかかる恐ろしい復讐の女神たち、地獄の怪物、亡霊たちを、悲しみに満ちた歌で鎮めます。 心無き者の心さえ動かす、音楽の力。 この神話は、遥か古代から、音楽が神秘の力を持っていたことを示す物語です。 そして現代人も、音楽の力によって生かされている、といっても過言ではないでしょう。 これは音楽によって音楽を讃えるオペラなのです。 死者の楽園、エリュシオンの野 さて、地獄から脱したオルフェウスは、いつしか楽園にいました。 花々が咲き乱れ、心地よいそよ風に木立は揺れ、緑あやなす野原が広がります。 そこでは、美しい精霊たちが歌い、踊り、戯れています。 ここは、エリュシオンの野と呼ばれ、冥界の中で、死者
ダンテの『神曲 地獄編』に描かれたコキュートス 三途の川を渡った吟遊詩人 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕の前半です。 愛妻エウリディケを失い、絶望のどん底にいたオルフェウス。 最高の妻を与えておきながら、幸せの絶頂で奪った神の非情を恨みます。 そこに、愛の神アモールが降臨し、『冥界に下って、自分の得意とする歌で地獄を和らげれば、あるいは妻を取り戻せるかもしれない。しかし、彼女に会えたとしても、地上に戻るまでその顔を見てはならない。』と託宣します。 オルフェウスは、地獄の恐ろしさと、誓いを守れるだろうか、という不安に震えつつも、妻を取り戻せるならどんなことにも耐えてみせよう、と地獄に下っていくところで第1幕が終わります。 第2幕は、地獄の場面。 ギリシャ神話では、日本で言うところの「三途の川」が5つあり、人間界と冥界を隔てています。 その川は、ステュクス、プレ
カラヴァッジョ『愛の勝利』 神を呪う、神の子 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第1幕の後半です。 結婚したばかりの愛妻、エウリディケを失った、オルフェウス。 エウリディケを悼み、オルフェウスを慰めようとする友人の羊飼いやニンフたちを遠ざけ、独り新妻の墓の前で悲嘆に暮れます。 彼女への追慕の情は募るばかり。 諦めようとしても諦めきれません。 ついに、彼は怒りを発し、このような酷い運命を課した神々を恨み、非難します。 彼は、神の血を引いていますが、神ではなく、不死でもなく、人間なのです。 愛する人をすぐ奪うくらいなら、なぜ与えたのか。 あの若さで死に至らしめるなんて、酷すぎる。 黄泉の国(冥界)にまで追いかけていって、エウリディケを取り戻してやるぞ! 大胆な英雄たちのように! 愛する人を取り戻すため、地獄にまで降りていく覚悟を示します。 大胆な英雄たち、というのは、アテ
古代ギリシャの壺に描かれたオルフェウス 音楽の神、オルフェウス神話 オルフェウスの母カリオペ それでは、マリー・アントワネットのピアノ教師でもあった、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第1幕の幕を開けます。 題材は、よく知られたギリシャ神話、『オルフェウス伝説』です。 オルフェウスは、ギリシャ語に近い発音でオルペウスとも呼ばれます。 太陽神アポロンと、芸術の女神たち、ムーサ(英語でミューズ)のひとり、カリオペとの子ですが、アポロンは名義上の父で、トラキア王オイアグロスとの子、との説もあります。 ともあれ、太陽神であるとともに、音楽の神でもあるアポロンと、ミューズ9人姉妹の長女で、最も賢く、「叙事詩」を司るカリオペとの子ですから、音楽の名手となりました。 吟遊詩人として名を馳せ、彼が竪琴を掻き鳴らしながら歌うと、森の動物たちのみならず、木々や岩までもが耳を傾けた、とされています
グルック 貴族を遠ざけ、平民を近づけた王妃 フランス王太子妃、のちの王妃マリー・アントワネットは、アットホームなところのある実家のハプスブルク家とは違った、堅苦しいフランス王家の宮廷儀礼、無意味に思えるしきたりに反発します。 もっと自分の思うようにやりたい、という自由への欲求がつのります。 彼女は、宮廷ルールや慣例を次第に無視し、才能ある平民を近づけ、自分のやりたいことを実現していきます。 それは、自己顕示欲と特権への執着しかない、貴族や廷臣たちへの反発でもありました。 そして、平民の髪結いレオナールや、モード商ベルタン嬢を取り立て、ファッション界を自分の力でリードしていきます。 音楽家もほとんど平民出身ですが、髪結いに比べたらはるかに地位は高く、何世紀も前から宮廷に出入りが許されていました。 しかし、エステルハージ侯爵家に30年仕えたハイドンのように、身分としては基本的には従僕と変わらな
流行の髪形「サンティマン・プフ」 マリー・アントワネットの口癖から生まれた髪型 シャルトル公爵夫人のウェディングドレスを手がけたことで、一躍有名となったモード商、ローズ・ベルタン嬢。 夫人に気に入られた彼女は、その後援のもと、サントノレ通りについに自分の店を開店します。 店の名は、「オ・グラン・モゴル」。 インドを支配していた〝ムガール帝国〟という大仰な名ですが、当時のオリエンタリズム(東洋趣味)に乗っているとともに、彼女の野心も感じられます。 お店はパレ・ロワイヤルの向かい、シャルトル公爵夫人の邸宅のすぐ近くです 公爵夫人は、才能ある若手の平民を自分のプロデュースで世に出すことによって、パリの流行をリードしていったのです。 名だたる貴賓が次々と店の顧客になってゆきました。 最終的な狙いは、王太子妃マリー・アントワネットです。 ちょうどその頃、王太子妃は「ケサコ?」という言葉が口癖になって
ローズ・ベルタン嬢 流行を生み出す「モード商」 王太子妃マリー・アントワネットのお抱え髪結い師となったレオナール・オーティエ。 彼との〝コラボ〟を持ちかけてきたのは、パリで流行りのモード商、ローズ・ベルタン嬢(マドモワゼル・ベルタン)(1747-1813)。 モード商とは、ファッションデザイナーの先駆で、服飾品商人・仕立屋などを兼ねる生業です。 彼女は、王妃となったマリー・アントワネットのお気に入りとなり、ふたりで打ち合わせをして生み出したファッションは、すぐに全パリの貴婦人が真似をしました。 それは、まるで王妃が勅令のように『これを今の流行とする』と定めているかのようで、ベルタン嬢は「モード大臣」と呼ばれました。 王室、また貴族たちは流行に乗せられ、競ってファッションに巨財を投じたので、これもフランス革命の遠因となりましたが、現代につながるモードのあり方というものは、ふたりが生み出したと
ダチョウの羽飾りをつけたマリー・アントワネット コーヒーで酔い覚まし 前回の続きです。 王太子妃マリー・アントワネットの髪を見事に斬新に結い上げ、まんまとお抱え髪結い師となったレオナール・オーティエ。 これまであまりヘアスタイルに気を遣っていなかった王太子妃は、がぜん、髪形にこだわるようになり、レオナールは毎日のように呼び出されるようになります。 あまりの多忙さに、相棒のフレモンにマネージャーになってもらいます。 ある日、仕事終わりにふたりで大酒を飲み、成功に酔い、美酒に酔います。 泥酔しているふたりのところに、王太子妃から使者が来て、急にオペラ座に出掛けることになったので、急遽正装用の髪を整えるように、と呼び出されます。 まっすぐ歩くこともできないふたり。 フレモンは、この王太子妃のリクエストに応えられなかったら、せっかくのご寵愛もだいなし、逆に大変な不興を買うかもしれない、と絶望します
貴婦人の髪を結うレオナール・オーティエ レオナール、ついにヴェルサイユへ 前回の続きです。 大嫌いな国王の愛妾、デュ・バリー夫人から、美容師を変えた方がよろしいのでは?と、嫌みなのか、それともお追従なのか分からない忠告をもらった、王太子妃マリー・アントワネット。 今、パリで評判の髪結い師、レオナール・アレクシス・オーティエの噂は、その愛人でもある側近、ランジャック侯爵夫人からもかねて聞いていて、興味もあったと思われます。 また、母帝マリア・テレジアからあてがわれた髪結い師、ラルセヌールもそろそろ変えたいと思っていた彼女にとっては、渡りに船だったかもしれません。 1772年、ランジャック侯爵夫人は、レオナールを連れてヴェルサイユ宮殿に参内します。 ちょうど王太子妃マリー・アントワネットは、義理の妹であるプロヴァンス伯夫人に着替えを手伝ってもらっていましたが、夫人が誤って彼女の髪を崩してしまっ
18世紀の髪結いの戯画 〝この支配からの卒業〟をしたいのは自分だけ? 堅苦しく厳しい宮廷儀礼と、コルセットに締め付けられ、息が詰まる思いの王太子妃マリー・アントワネット。 まだ10代なので無理はありませんが、もともと出身は、嫁ぎ先のフランス・ブルボン家よりも格上の、ヨーロッパ一の名家ハプスブルク家。 平民がいきなり玉の輿に乗ったわけのとはわけが違います。 代々の王太子妃、王妃たちも窮屈な思いをしたはずですが、運命と自らに課された過酷な使命に抗うすべなどありませんでした。 なぜ、彼女だけ激しい抵抗をみせたのか。 それは、変化を求めていた時代の雰囲気にあったのかもしれません。 ヴェルサイユ宮殿を築いた、バロックの太陽王ルイ14世が、ヨーロッパに君臨した絶対王政は、そろそろ限界を迎えていました。 宮廷儀礼は、絶対王政の維持装置そのものです。 18世紀後半、世に広まった啓蒙思想は、人の権利、自由を
ヴェルサイユの礼装グラン・コール 女性を物理的にも束縛したコルセット 王太子妃マリー・アントワネットが、母帝マリア・テレジアの反対を押し切って乗馬に熱中したのは、最初は自分と距離をとっている王太子の狩りの趣味に付き合うためでした。 しかし、いざ始めてみると、ヨーロッパ一堅苦しく、衆人環視のもとエチケットやマナーを厳守しなければならない、ヴェルサイユの宮廷生活からの解放感に酔いしれるようになりました。 夫が狩りや趣味の錠前作りに熱中しているのも、必ずしも自分を避けているのではなく、彼も宮廷から、できる限り逃れたいからだ、と理解できてきました。 また、彼女を束縛しているのは「コルセット」でした。 フランス貴族の子女は、男女ともに2歳からコルセットを着用する習慣でしたが、男の子は6歳で外されます。 しかし、女の子はずっと着用しなければなりません。 それは、中国で行われていた「纏足」と同じく、女性
ルイ・オーギュスト・ブラン『乗馬姿のマリー・アントワネット』1783年 不完全な夫婦 王太子ベリー公(のちのルイ16世)と王太子妃マリー・アントワネットは、1770年5月16日に結婚式を終え、国王ルイ15世、司祭と廷臣たちの衆人環視のもと、夫婦の寝室にて、新婚初夜を祝福する儀式が行われました。 王家の生活が公開されているヴェルサイユ宮殿にあっても、さすがに儀式が終われば皆退室し、天蓋つきベッドのベールが降ろされ、ふたりだけの空間となります。 しかし、新婚夫婦はそのまま寝てしまい、何もありませんでした。 翌朝、シーツを交換した女官が、国王に「何もなかった」ことを報告します。 それはすぐに、全宮廷に知れわたり、さらに外交官によってヨーロッパ各国に急報されます。 ハプスブルク家はかつては戦争ではなく、結婚によって他国を併呑してきましたが、今が逆の局面となることが増えていました。 18世紀初頭、ス
アルトワ伯(のちのシャルル10世) もうひとりの義弟、アルトワ伯 マリー・アントワネットのふたりの義弟のうち、今回は下のアルトワ伯シャルル=フィリップ、のちのシャルル10世です。 フランス王太子ルイ・フェルディナンと王太子妃マリー=ジョゼフ・ド・サクスの第4子として、1757年に生まれました。 マリー・アントワネットとはふたつ年下であり、彼女も窮屈なヴェルサイユ宮殿にあって、堅苦しい夫との関係に悩んでいた頃、一番年も近く、気の置けない仲となりました。 前回取り上げた上の義弟、プロヴァンス伯は、兄ルイ16世に子供ができなかったら自分が国王になれる、と期待し、野心満々でしたが、アルトワ伯は順番からいって自分に王位が回ってくるとは考えていませんでした。 そのため、気も楽ですし、何より、彼は天性の遊び人でした。 鈍重で大食いの兄王太子と比べて、スマートなイケメンでもあり、女性によくモテました。 物
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