サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
装丁を味わう
kizuki39.blog99.fc2.com
だれかが指先をにぎってくれていたような気がした。自分の指先をにぎってくれていたかもしれないだれかの手を求めるためだけに目を覚ましたような気がした。けれど、目を覚ましたときの時間と感覚をただまちがえてしまっただけのような気もおなじくらいにしていた。その日の朝に目を覚ましたんじゃなくて、昨日の朝に目をさましてしまったような気がした。昨日の朝に目をさましてしまったのに、あたりまえのようにその日の朝に横たわっている身体がいびつな不具合を抱えているような気がした。寝台の薄い毛布に顔をこすりつけるとけばが頬をくすぐった。夏の光のなかでおさないころからずっと抱えこんでいたたいせつなものを失ってしまったような気がして、靴子は指先をにぎっていてくれたかもしれないだれかを求めて毛布のあたたかみのなかで手を這わせた。けれど求めているのはそのだれかなんかじゃなくて携帯電話だということを靴子は知ってしまっていた。そ
イヌハル「箱庭物語 海の祈り」 以上の物語内容に結末をふくめて言及しています。 3月9日(月) 会社にいった。 3月10日(火) 会社にいった。 3月11日(水) 会社にいった。帰って、河出書房新社にいった。 3月12日(木) 会社にいった。謎の胃痛におそわれ、会社から逃げかえった。病院にいったら、原因はわかりません、と言われた。血をぬかれた。 3月13日(金) 会社をやすんだ。ぬかれた血のよしあしを聞きにいったら、肝臓がよくない、と言われた。 3月14日(土) 小説を書いた。 3月15日(日) 小説を書いた。 3月16日(月) 会社にいった。 3月17日(火) 会社にいった。 3月18日(水) 会社にいった。 3月19日(木) 会社にいった。 3月20日(金) 会社にいった。 友達が、人生で生まれてはじめて救急車にのった、と言っていた。これは救急車を呼んでいいほどの苦痛なのだろうか、と逡
本それ自体は不変であり、一方人々の意見は、往々にしてそれに対する絶望の表現でしかない。(フランツ・カフカ) 今日は舞城王太郎さんの話を少しします。 僕は基本的に新人作家の本はあまり読みません。何故なら、ほかに読みたい本がたくさんあるからです。同じ値段を払うならまだあんまりうまくない新人の本を読むより、海外のおもしろい作家を読めばいいじゃないか、と豊崎由美さんは言っていましたが、これはその通りだと思います。 芥川賞よりもイギリスのブッカー賞受賞作のほうがおもしろいに決まっています。 保坂和志さんは日本の小説家は日本の小説ばっかり読んでいると言いました。高橋源一郎さんは日本の小説家は詩を読まないと言いました。 僕は、カルヴィーノもヴォネガットもマキューアンも全作品を読んでいません。オンダーチェもジョン・バースもジュリアン・バーンズもまだ一冊も読んでいません。早く読みたいです。 そんな
◇◇◇ 大きな事件があって、人々が放心状態に陥ると、まず必要になるのは、薬や食品や水ではありません。毛布や、救助犬や、軍隊でもありません。なにより、言葉なのです。彼らのショックを和らげ、不安を解消させるための言葉が、必要とされるのです。 ◇◇◇ 文学というのは言葉を用いる芸術だ。その体裁ははっきり言ってなんだってかまわないし、何を持って文学と言うのかその規範さえもいまだにはっきりと規定されてはいないと僕には思えるのだけれど、その根本のところに「言葉」があるのはまちがいない。言葉というのは僕たちのまわりあふれすぎているせいで、自由に使えるとかんちがいされやすい。けれど僕の考えでは僕らはおそらく言語的にとても不自由な生き物だ。そして僕たちはそれに無自覚だ。だがその「不自由さ」に気づく瞬間・空間に文学が発生する。文学は万能ではない。その発生の瞬間から絶対的な矛盾を抱えこんで離さない。文学は不可能
彼が彼女に言いたいと思いながら言えなかったことを抱えたままとても長い月日がたっていた。だから彼女は自分のことを彼が言いたいと思いつづけていたことを言われたあとの自分であるように思えていた。もうずっとそうだった。 俺がこれを言ってもおまえはきっと俺のことを軽蔑しないと思うから俺はこのことをおまえに言うんだけれど、俺はずっとまえから世界のすべてのにんげんを殺しつづけてきたんだ、もうたくさんのにんげんを殺してきた、おまえに気づかれないように世界のうらがわからすこしずつ、何千人も、何万人も、何億人も殺しつづけてきたんだ。 その夜、彼はそう言った。薄暗く、ちいさな部屋だった。部屋のかたすみの台所から蜜色の光が放たれ、その部屋のまんなかあたりでゆっくりととだえつづけていた。台所と正反対の場所におおきな寝台がおかれていた。その横に窓があった。わずかにひらかれたカーテンの隙間から青白い月の光が射しこみ、そ
本それ自体は不変であり、一方人々の意見は、往々にしてそれに対する絶望の表現でしかない。(フランツ・カフカ) 興奮している。眠れそうにない。眠る前の、普段ならぬくぬくと小説を読んでいる時間なのに、こんな文章をちまちまと書いているのが、その証拠。 というのも、「劇団、本谷有希子」主催の『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』を見たせいだ。全部そのせいだ。今意識したけれど、ものすごく頭の悪そうなタイトルだ。口にだすのも、恥ずかしいくらいに。 こういうものを見てしまうと、書評を書いているのが馬鹿らしくなってくる。書評なんていらない。本はいつでも読みかえせる、読みおわったとの興奮は貴重だけれど、好きなときに好きなページを読みかえし、それについて考えることができる。だったら、と僕は思う。書評なんて一瞬のものでしかない。一年前に読んだとき、今読んだとき、一年後に読んだとき、そのときどきでその
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『首吊り芸人は首を吊らない。初心者でもわかる小説の読み方』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く