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ドストエフスキーに関するfunaki_naotoのブックマーク (43)

  • ドストエフスキーがプーシキンの銅像除幕式で講演を行った際の聴衆の様子について、ドストエフスキー自身が... | レファレンス協同データベース

    『ドストエフスキー全集 23』(ドストエフスキー/[著]、新潮社、1980年、 P464-466)に収録の1880年6月8日の宛の書簡が該当する。 1 プーシキンの銅像除幕式の年月日を確認することとする。 (1)『世界伝記大事典 世界編 6 タ〜トミ』(ほるぷ出版、1980年)、『世界伝記大事典 世界編 8 ハル〜フュ』(ほるぷ出版、1981年)にてドストエフスキー及びプーシキンについて調べるがプーシキンの銅像除幕式の情報はなし。 (2)Googleブックスにてキーワード「プーシキン銅像除幕式」で検索。 数件ヒットし、1880年6月に除幕式が行われたことが分かる。 『森鷗外とドストエフスキイ』(西山邦彦/著、啓文社、1980年、千葉市図書館未所蔵)では年の記載はないが6月8日と除幕式の日付を特定できる。(2016.9.3接続確認) (3)所蔵資料で銅像除幕式の年月日を調査。 『ドストエフ

    ドストエフスキーがプーシキンの銅像除幕式で講演を行った際の聴衆の様子について、ドストエフスキー自身が... | レファレンス協同データベース
  • 筑摩書房 ドストエーフスキー覚書 / 森 有正 著

    ドストエフスキーの文学は、いまなお私たちの魂を揺さぶってやまない。長大な作品の最初のページを開いた瞬間から我知らず引き込まれてゆくのはなぜか。「このを出したのは、思想的な牽引力が私をドストエーフスキーに引き付けたからであった。思想的とは、人間の現実に直入して、その中核を把握する力強さについてのことである」。著者は『罪と罰』に罪悪感を、『悪霊』に絶望と死を、『カラマーゾフの兄弟』に自由と愛を、『白痴』に善を考察し、『死の家の記録』に「人間」を発見する。深い洞察に導かれた「読み」は、その作品世界を味わうための最良のガイドとなっている。 1 ドストエーフスキーの罪悪観―『罪と罰』の一考察 2 ドストエーフスキーにおける絶望と死―『悪霊』の一考察 3 スタヴローギンの精神像 4 コーリャ・クラソートキン―『カラマーゾフの兄弟』の中の一挿話 5 ドストエーフスキーにおける「自由」の一考察―『大審問

  • 株式会社 QTmedia | COARAの発展形デジタルエージェンシー

    想いにかたちはありません。 それでも確かに存在して、人と世界を動かします。 お客さまの想いをくみ取り、解決策を提案する。 多彩なアイディアと技術を駆使して、効果をもたらすまで実行する。 私たちの取組みで、お客さまの想いをあまねく伝える。 伝わる想いで、人と世界を彩り豊かに変えていく。 「明日を今日よりあざやかに」 それがQTmediaの想いです。

    株式会社 QTmedia | COARAの発展形デジタルエージェンシー
  • 『ギリシャ正教』 - for dust you are and to dust you will return

    ギリシャ正教 (講談社学術文庫) 作者: 高橋保行出版社/メーカー: 講談社発売日: 1980/07/08メディア: 文庫 クリック: 20回この商品を含むブログ (11件) を見るギリシャ正教会の歴史、儀礼、思想について書かれたもの。著者は正教会の聖職者であり、ギリシャ正教の教えを伝道する立場にある。そのためか、「ギリシャ正教は優れており、カトリック・プロテスタントは劣っている」という歴史観・思想観が散見される。しかし、思想・宗教の優劣などというものはそう簡単には決められないものであり、その辺りは少し差し引いて読まなければならないだろう。 著者はギリシャ正教の説明をするためにドストエフスキーを何度か引用している。ドストエフスキーの生きた19世紀ロシアにおいては、伝統的な正教とローマ・カトリック・プロテスタントが混淆した状態にあった。これは18世紀ピョートル大帝がカトリック・プロテスタント

    『ギリシャ正教』 - for dust you are and to dust you will return
  • 黒澤明と小林秀雄

    ISBN978-4-86520-005-8 C0098 四六判上製 文縦組304頁 定価(体2500円+税) 2014.07 1956年12月、黒澤明と小林秀雄は対談を行ったが、残念ながらその記事が掲載されなかったため、詳細は分かっていない。共にドストエフスキーにこだわリ続けた両雄の思考遍歴をたどり、その時代背景を探ることで「対談」の謎に迫る。 当社への直接注文(代引、送料無料)、問い合わせはこちら(info@seibunsha.net)から オンライン書店で購入 版元ドットコム 書評・紹介 '16.10.25 寄稿 『地球システム・倫理学会会報』No.11(著者) '16.02.08 書評 『ユーラシア研究』第53号(木村敦夫氏) '15.10.15 書評 『ロシアロシア文学研究』第47号(小林実氏) '15.05.23 講演会 著者による「地球システム・倫理学会 研究例会」での講

  • ドストエフスキー文学に生涯かけた翻訳家、その数奇な半生を追う。

    ドストエフスキー文学と共に歩んだ一人の女性の、数奇な半生を追ったドキュメンタリー「ドストエフスキーと愛に生きる」が、2014年2月下旬より、渋谷アップリンク、シネマート六木ほか全国で順次公開される。 80歳を超える翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの横には、華奢な姿に不似合いな重厚な装丁のが積まれている。「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」「未成年」「白痴」、言わずと知れたロシア文学の巨匠・ドストエフスキーの長編作品だ。それらを“五頭の象”と呼び、彼女は生涯をかけてドイツ語に訳した。 1923年ウクライナ・キエフで生まれ、スターリン政権下で少女時代を過ごし、ナチス占領下でドイツ軍の通訳として激動の時代を生き抜いた彼女は、なぜドストエフスキーを翻訳したのだろうか。高潔なる知性と独自の哲学を持って、ドストエフスキー文学の真の言葉を探す横顔には、戦争の記憶が深い皺となって刻まれている。

    ドストエフスキー文学に生涯かけた翻訳家、その数奇な半生を追う。
  • 読みやすさとわかりにくさ――山城むつみ 『連続する問題』を読む(その1) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    山城むつみ『連続する問題』*1を読む。「新潮」に2002年から2008年にかけて断続的に連載されたコラムに補論を加えて単行となった。あとがきに、単行化の申し出をいったん断ったが編集者の熱心な慫慂に「心が動かされた」としるされている。わたしはこれらのコラムをこのではじめて読んだ。書籍にならなければ知ることもなかったかもしれない。こうして一にまとめられたことを有難く思った。 タイトルの「連続する問題」は中野重治の同題のコラムを踏襲している。中野は1972年より「通信方位」に短い時評文を執筆していたが、そのなかに「在日朝鮮人と全国水平社の人びと――いささか昔のこと――」という標題の「続きもの」がある。十二回でいったん終り、数回のちに「連続する問題」という標題のコラムが書かれた。そこであつかわれたのは「日共産党の動きに関することがら」であるが、それは「いささか昔のこと」と連続していること

    読みやすさとわかりにくさ――山城むつみ 『連続する問題』を読む(その1) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • 山城むつみ「ドストエフスキー」書評 人間と言葉の関係、根本から問い直す|好書好日

    【毎日出版文化賞(第65回)】文学史上最大の衝撃、ドストエフスキーとは何なのか? その作品世界の主な動力となっている異和=ラズノグラーシエを切り口に、ドストエフスキー論の… ドストエフスキー [著]山城むつみ ドストエフスキーの小説を読むと、他の小説を読むときとは何か根的に違うことをしていると感じられる。格段に面白いとか、個性的であるといったことではすまされない質の違いがあるように思える。その違いはどこからくるのだろうか? ドストエフスキーの創作の秘密に最も肉薄した批評家は、おそらくミハイル・バフチンであろう。独自の言語論を駆使して書かれたバフチンのドストエフスキー論、そこを出発点として、さらに秘密の森林の奥深くへと著者は分け入っていくのであるが、「悪霊」「罪と罰」をはじめ多くの作品を取り上げては、あきれるくらいに粘り強く、徹底踏査するように読み込み分析していく著者の姿は、人跡未踏の秘境

    山城むつみ「ドストエフスキー」書評 人間と言葉の関係、根本から問い直す|好書好日
  • カナリアとしてのドストエフスキー論 - こころなきみにも

    これまで亀山郁夫のドストエフスキーの翻訳やドストエフスキー論を読んできて痛感したのは、「いくらなんでもここまではしないだろう」という一線を亀山が平気で踏みこえてしまっているということだ。たとえば、亀山による『悪霊』のマトリョーシャ解釈や『カラマーゾフの兄弟』の翻訳での原作歪曲などは、正気の沙汰ではない。ロシア人研究者相手に同じことを主張できるものならしてみるがいい。即、精神病院に放り込まれるだろう。 しかし、これもすでに詳しく批判したことだが、このような「踏みこえ(ロシア語でпреступление、つまり「犯罪」、あるいは『罪と罰』の「罪」)」はすでに江川卓のドストエフスキー論にも見られたことだ。たとえば、江川が読売文学賞を受けた『謎とき『罪と罰』』での「ラスコーリニコフ=666」説や名前解釈によるドストエフスキー論など。 江川に読売文学賞を与えた選考委員たちの罪は重い。彼らもまた越えて

    カナリアとしてのドストエフスキー論 - こころなきみにも
  • 山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社) - 柄谷行人を解体する

    山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社)は 小林秀雄、バフチンの考察を意識しながら ドストエフスキーを再検討するものだという。 小林よりバフチンへの言及が多く 二葉亭四迷、キルケゴール『死に至る病』、 デリダ『死を与える』などの参照もある。 山城の文章がドストエフスキーの作品と区別がつかない箇所があり 山城がかつて、柄谷行人「内省と遡行」や 小林秀雄「『罪と罰』について」で指摘した事を思い出した。 山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社) 自身に対して発する内的な言葉(「俺じゃない」)をイワンはよく知っているつもりだが、しかしその内的な言葉を自分に発するまさにそのことで彼は何かを抑圧している。何が抑圧されているのか、それはイワンには知り得ない。ただし、アリューシャがイワンのその内的言葉を見透して、それを知己の言葉として彼に投げ返すとき、言葉とともに、抑圧されたものもイワンに回帰してゆく。

    山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社) - 柄谷行人を解体する
  • ドストエフスキーと私 - こころなきみにも

    昨日、30分だけだったが、神戸外大ロシア学科の同窓会(楠露会)で話をさせて頂いた。以下はその原稿。 - ドストエフスキーと私 きょうは会のために何か話をしてほしいと山田さんから御依頼を受けましたので、私がなぜドストエフスキー研究者になったのかについて話したいと思います。 私は高校生の頃、それまで暇があれば朝から晩まで楽器をいじっていた音楽少年であったのにも拘わらず、突然ドストエフスキーにつかまり、それ以来、ドストエフスキーから離れられないまま現在に至りました。高校で同級だった水田君という人が授業中こっそり『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたので、教師の目を盗んでまでして読まなければならないほど面白いものなのか、それなら自分も読んでみよう、そう思って読み始めたのです。読んでみたところ、それまで読んでいた夏目漱石や志賀直哉などとは桁違いの面白さで、まったく異次元の世界に連れて行かれる

    ドストエフスキーと私 - こころなきみにも
  • フロイトのドストエフスキー論 - heuristic ways

    フロイトがドストエフスキー論を書いているのは知っていたが、今回初めて読んだ。図書館で中山元訳の『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社古典新訳文庫)を見かけたので、借りてみたのである。「ドストエフスキーと父親殺し」は一九二八年、フロイト(1856−1939)が七二歳のときに書かれている。年譜を見ると、一九二七年には『幻想の未来』、三〇年には『文化への不満』を刊行しており、後期フロイトが精神分析の理論を宗教や文明批判、政治理論などにも応用していた時期に当たることがわかる。  フロイトはドストエフスキーを「詩人」としてはきわめて高く評価しながらも*1、「道徳家」や「罪人」としては手厳しく批判し、結局のところ、「神経症患者」として精神分析の対象としている。 私が興味深いと思ったのは、ドストエフスキーの「道徳家という<顔>」を批判しているところで、フロイトは、「道徳性の高い人物というも

  • freeml(フリーエムエル)|新しい生活をはじめる羅針盤

  • 意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載1) - 清水正ブログ

    清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。 ドストエフスキー・宮沢賢治・宮崎駿・今村昌平・林芙美子・つげ義春・日野日出志などについての講演を引き受けます。 ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室 清水正の著作   D文学研究会発行   グッドプロフェッサー 意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載1) 山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに 山城むつみの『ドストエフスキー』は二週間をかけて熟読した。近頃、一気に読んでみようというがなかったので、それなりに刺激的なものだったのだろう。読み終わったのは十二月十三日で、すでに十日以上たってしまったので、記憶もおぼろなところがあるが、まずは率直な感想だけを述べておこう。 2010年12月26日・熱海にて山崎行太郎さんと

    意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載1) - 清水正ブログ
  • 飛弾五郎/山城むつみ氏のドストエフスキー[I]

    1 文学界の2月号に載った山城むつみ氏のドストエフスキー論(第1回、以降は不定期連載)は面白い。小林秀雄に関する独創的なエッセイでデビューした山城氏ではあったが、その実質は、ドストエフスキーの作品をめぐる小林秀雄の一見奇妙な、しかし普遍的としか言いようがない執筆態度を鮮やかに浮き彫りにしていた。執拗な読解の反復が、ついには対象作品をそのまま再現するまでに至る有様を見事に捕えていたのだった。 以降、今日までの多産とは言えない氏の歩みは、言葉の謎とコミュニズムの困難に関しての考察に終始してきたと言えようが、こんどのドストエフスキー論もまたその例外ではない。しかし、この作品は、初めて内から発光するような、ある輝きを放っている。 山城氏の読解は非常に執拗なものであるが、いつもとても素朴な印象をあたえる。おそらくは、はるかに予想を越えた反復過程が秘められているのだろうが、記される述懐は皆受け入れやす

  • 現代のヨブ記 - キリスト者の慰め

    旧約聖書のヨブ記を模範として書かれた文学作品は多い。 遠藤周作の「沈黙」、ミルトンの「失楽園」、ダンテの「神曲」、 ゲーテの「ファウスト」、そしてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」・・・。 特に「カラマーゾフの兄弟」は、ヨブ記著者の精神を最もよく継承していると思うのである。 主人公であるアリョーシャは敬虔なキリスト教徒だったが、 無神論者である兄イワンの言葉によって、信仰が動揺する。 「なぜ、神が愛であるならば、虐待や戦争などによって、罪なき子ども達の血が流されるのか? なぜ、神は人間に精神の自由を与えて、パンを与えなかったのか?」と。 そしてかかる理論的懐疑に追いうちをかけるように、 最愛の師ゾシマ長老の無残な死が、アリョーシャをして愛の神を疑わしめるのである。 (人間は自分の宝であるものを喪失することによって、真に深刻な懐疑を生ぜしめる) 誰よりもキリストに従順だった人間の死、し

    現代のヨブ記 - キリスト者の慰め
  • 『バーデン・バーデンの夏』レオニード・ツィプキン著、沼野恭子訳(新潮社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「ドストエフスキーに会いたい」 このツィプキン(1926-82)の小説は、ロシアの文豪ドストエフスキーについての小説である。ツィプキンは医者であり、その方面では活躍した人らしいが、ソ連体制下で「危険分子」などともみなされていたようだ。小説家としては、この作品があるのみらしい。こういう小説が出版されたのも、昨今のドストエフスキー・ブームと関係しているのだろうか。 12月の冬、語り手(作者自身がモデルだろう)は、ドストエフスキーの夫人であったアンナの日記を手に、モスクワからレニングラードへと向かう列車に乗り込む。列車が走る中、語り手はアンナの日記を読んでいるのだろう、ドストエフスキーをめぐって、あてどない想念を展開する。文が220ページほどあるのに段落が11個、平均すれば、22ページに1個しか「。」がないので、文字通り目が離せない小説だ。語り手の連想はあちらこちらへと飛

    『バーデン・バーデンの夏』レオニード・ツィプキン著、沼野恭子訳(新潮社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • オネーギンとタチヤナ - sushijimaの日記

    mozaicから再録。小林秀雄の「政治と文学」という講演録にある。考えるヒント2か3に収録されていたはず。ある種の人間の運命をおぞましいくらい的確に描写しているように見える。 .. このに、「プウシキン論」が載っている。(中略) .. この講演の中心点は、プウシキンの「オネーギン」という恋愛悲劇の分析にあるのですが、ドストエフスキイの考えによれば、「オネーギン」は寧ろ「タチヤナ」と題すべき作で、オネーギンという教養ある複雑な人物より、タチヤナという単純な田舎娘の法が、実はよほど高級な当の意味で聡明な人間だという洞察に、プウシキンの天才があるという。 .. 成る程オネーギンは聡明でもあるし、誠実でもある、自ら「世界苦の受難者」を以って任じている。しかしこういう「世界苦の受難者」の心にひそむ「下司根性」を見抜くには、現代ロシアに沢山いるオネーギンたちのいわゆる鋭い観察などでは到底駄目である

    オネーギンとタチヤナ - sushijimaの日記
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    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/04/20
    「小説ではその間接性はどこにあるのだろうか。約束事ということだろうか」
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