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2016年10月12日のブックマーク (1件)

  • カナダ式、想像力欠如していてもいい人になれる方法(異文化の観点から)|エドモントン・クルーザー|note

    では「その人の立場に立って」「その人の気持ちに寄り添って」「まるで自分の問題かのごとく」他人の問題を感じ、考えるのが良しとされている気がする。 そして、それをするためには想像力が必要だと。 ってうかぶっちゃけそんなの無理でしょ? シロクマ先生も書いていたように、そんな事するには、 「想像力が欠如していない」状態、すなわち、自分とは異なる階級・階層・立場・属性の人達への想像力が行き届いた状態には、コストがかかる。生活態度も価値観も出自も違っている人達に想像力を当に働かせるためには、当然、そうした人達とのコミュニケーションが必要となる。だが、そのようなコミュニケーションや“接点”は、必然的にしがらみや摩擦をどっさりもたらす。最も成功した場合でさえ、気を遣ったぶんだけ神経は磨り減るだろうし、時間もかかる。"コスト"がかかるのだ。 カナダは多民族国家なので、例えば職場に一人や二人モスリムはい

    カナダ式、想像力欠如していてもいい人になれる方法(異文化の観点から)|エドモントン・クルーザー|note
    ko_kanagawa
    ko_kanagawa 2016/10/12
    社交って言葉のが意味するところは、分かり合えないから一定のルールを設けた人付き合い、みたいな事なんじゃないかと考えた事がある。卑近な反例としては長谷川豊さんの騒動かな