2021年4月4日のブックマーク (5件)

  • 「承認」の位相――「かけがえのなさ」を巡る憲法と『クズの本懐』の管轄領域 - 人文学と法学、それとアニメーション。

    1 はじめに 横槍メンゴ『クズの懐』(スクウェア・エニックス、2013‐2018年)[1]の著名なセリフに、こんなセリフがある。 私たちは、付き合っている。 でも、お互いがお互いの、かけがえのある恋人。 (アニメ版PV) https://www.youtube.com/watch?v=iNBoRqmKJtM 他方、憲法学において、憲法13条の「個人として尊重される」とは、一人一人が「かけがえのない個人」として尊重される、という意味であると理解されてきた。(高橋和之『立憲主義と日国憲法 第5版』(有斐閣、2020年)159‐160頁は「特別犠牲を強制されない権利」という項目を持つ。なおこの点を近時の応用に押し出しているのが青井未帆で同「特別犠牲を強制されない権利」戸松秀典=野坂泰司『憲法訴訟の現状分析』(有斐閣、2012年)) 私がひっかかったのは、この同じシニフィアンで表される「かけが

    「承認」の位相――「かけがえのなさ」を巡る憲法と『クズの本懐』の管轄領域 - 人文学と法学、それとアニメーション。
  • 「コーポみさき」は小説化できるか ーー短歌と小説の叙述について - つきのこども/あぶく。

    ※この記事は角川短歌2018年11月号掲載の短歌連作及び第64回角川短歌賞選考座談会の内容を一部引用しています。 「コーポみさき」(作者:山階基)は第64回角川短歌賞の次席作品で、50首からなる短歌の連作だ(複数の短詩を並べて構成される一連全体で一作品となっているものを連作という)。ちなみに第64回角川短歌賞の大賞は山川築の「オン・ザ・ロード」、次席は平井俊の「蝶の標」と「コーポみさき」の2作受賞となっている。作品はいずれも角川短歌2018年11月号に全文掲載されている。選考委員は伊藤一彦、小池光、永田和宏、東直子の4名である。 角川短歌11月号(kindle版) 白い布はずされながら美容師にまだ引っ越しを伝えていない この歌から始まる「コーポみさき」は作中主体「わたし」(作中主体とは短歌1首、あるいは連作全体の「主人公」のこと)の引っ越しとその後の生活、周囲の人々とのエピソードなどが描

    「コーポみさき」は小説化できるか ーー短歌と小説の叙述について - つきのこども/あぶく。
  • 心の経験はどこまで行けるのか | 塔短歌会

    この一年を振り返ると、短歌が根っこから揺さぶられた年だったという感がある。レトリック論などの比較的細かい議論よりも、スケールの大きい原論的な問題が多く取沙汰された。それは、印象に残った特集や話題を挙げてみても明らかだ。佐村河内守氏の代作問題を受けた企画「感動はどこにあるのか―作品と作者と〈物語〉」(「短歌」四月号)や短歌研究新人賞受賞作をめぐる虚構問題、また、「短歌研究」十一月号の特集「短歌の〈わたくし〉を考える」など、短歌が短歌であることの質に迫るような議論が多かったように思う。 東日大震災と原発事故の後、「言葉の無力さ」ということが盛んに言われた。その是非は措くとしても、言葉とは何なのか、短歌とは何なのかという根源的な問題を改めて考え直す契機になった。精神科医で批評家の斎藤環は著書『文学の断層』のなかで、かつて私小説が主流であった文壇に、関東大震災の翌年横光利一ら新感覚派やプロレタ

  • 無抵抗の不用意さ | 塔短歌会

    山田航による歌壇時評「もはや抗えないもの」(「短歌」二〇一七年七月号)が波紋を広げている。実際の傷害事件に取材した目黒哲朗の連作「生きる力」(「歌壇」二〇一七年二月号)について山田は、目黒の文語旧仮名表記が「作者が以前からとっているスタイル」であると認めた上で、次のように記す。 現実の事件に取材をしているわけではない非リアリズムの歌であれば、一種の「言 葉のコスプレ」として許容される余地が十分にある。(…)目黒の作品にのみ「こ れは受け入れてしまってはいけない気がする」という感情がとりわけ強く兆したの は、やはり現実の事件を題材としていて、さらにその事件が作者にとっても心を強 く揺さぶられた重大な経験であるというリアリティがよく伝わってきたからであ る。だからこそ、嘘くさい文体にしてほしくなかった。現代短歌のリテラシーを発 動させる以前に、同時代に同じ社会を生きる個人としてのシンパシーを発

  • 〈理解がない人〉を考える――特集:描く短歌

    短歌と絵(稿では写真・動画などを広く含む)について書くとき、その試みを何度か経験した者としては、それに〈理解がない人〉に向けて語りたくなる。「歌は一首で屹立しなければならない」「絵など読みの妨げだ」などと、いかにも彼らが言いそうなことはたくさん思い浮かべられる。しかし改めて思うと、彼らが具体的に誰なのかは分からず、会ったこともない。なんだか危うい。 私を含めて、例えば歌人が短歌をマイナーな文芸であると自ら言うとき、文語(口語)を過剰に意識して口語(文語)を選び取るとき、または、歌壇を伏魔殿としてそこから距離を取ることを強調するとき、錬金術のようにアドレナリンが湧く。同じことを、短歌と絵を組み合わせるときにも感じてきた。試みはいくつかあるはずなのに、自分だけが禁忌を侵しているようなあの優越感はなんだろう。残念ながら、そして幸いなことに、短歌と絵を組み合わせた作品に対する批評はほとんど皆無と

    〈理解がない人〉を考える――特集:描く短歌