タグ

ブックマーク / lessor.hatenablog.com (219)

  • 「放課後バブル」のゆくえ - 泣きやむまで 泣くといい

    業界が少しだけざわついているようなので、およそ半年ぶりのブログ更新。 障害児預かり、運営厳格化へ 全国8400カ所、不正防止で https://this.kiji.is/189297838486110214 放課後デイ運営厳格化 厚労省方針、不正防止図る http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=309159&comment_sub_id=0&category_id=256 いちおう非関係者にもわかるように説明すると「放課後に障害児を預かる(「療育」する?)事業の報酬単価をがーんと上げたら、営利企業の参入が急増。「儲かりまっせ」というコンサルまで登場。保護者はどんどん子どもを預けるようになり、給付費はぐんぐん増大。やばい、もっと厳しくしていこう」ということである。 記事にあるような不正は実際に指摘されているの

    「放課後バブル」のゆくえ - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2017/01/06
    "これは増大する給付費を抑制するためのひとつの方法であり、「抑制しようと頑張っている」ことのアピールとして見るべき" 最近の一連の動きの本質はどう見てもこれだよな。
  • 3分で読める超訳「知的障害の障害学」最前線 - 泣きやむまで 泣くといい

    この土日は「障害学会」というのがある。仕事で行けないけれど。 障害学会第9回(神戸)大会 http://www2.kobe-u.ac.jp/~zda/jsds-kobe.html 研究者以外にとって「学会」とはやけに難しそうな響きをもつものである。しかし、少なからず「当事者」のための学問であろうとしてきた「障害学」がそのように理解されてしまうのはもったいない。 しかも、日曜に行われる学会シンポジウムのタイトルは「個人的な経験と障害の社会モデル:知的障害に焦点を当てて」だ。「知的障害」についての議論はさまざまな領域でなされてきたが、「障害学」は少し違った観点を持っている。だから、前例のないような議論が生まれる可能性もあるし、「面白い」と思ってもらえる人だっているかもしれない。 そんなわけで、これまで「知的障害の障害学」に触れたことがない人向けに、今回の学会シンポジウムで最初の「問題提起」を務

    3分で読める超訳「知的障害の障害学」最前線 - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2016/10/09
    発掘してきた。昔これブクマしてなかったんだな。現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件の星加先生の寄稿を読んでいて、思い出した。
  • 「障害者」のリアリティをもって抗いたい - 泣きやむまで 泣くといい

    相模原の入所施設で凄惨な事件が起きた。障害者支援をしてきた者(かつ事業所の経営者)として、考えさせられることが多すぎて、2日のあいだ(職場の中でさえも)コメントできずにいた。 今回、亡くなられた方たちは性別と年齢のみが報じられている。このことについて、朝日新聞のヨーロッパ特派員によるツイートが強く批判されているのを見て、自分たちにとっての課題を少し記しておきたい、と思った*1。 神奈川県警「現場が障害者の入所する施設で、氏名の非公表を求める遺族からの強い要望があった」→匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります。 https://twitter.com/shiho_watanabe/status/758178708859527168 これまで犯罪被害者の遺族に対する執拗な取材が、悲しみに暮れる人々に追い討ちをかけたり、誰のため

    「障害者」のリアリティをもって抗いたい - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2016/07/28
    "障害をもつ人たちの支援をしてきた者として、ひとつだけ、思う。これを機にして被害者、家族、支援者の「前向きな生きざま」は十分に世間から想像されるのだろうか、と"
  • 分かち合える「親の会」の新鮮さ - 泣きやむまで 泣くといい

    不登校の子どもたちの親の会をはじめた。まだまだ緩いメンバーシップなので、元不登校とか不登校予備軍とかいろいろ混ざっているが、とにかくはじめた。 障害児の親の会とは各地で20年ほど関わってきたが、それらはみんな「事業」とともにあった。子どもたちの活動を作り、どこかから資金を引っ張ってくるために組織を作る必要があり、そうしてできた親の会は次第に「支えあい」「分かち合い」から逸れていく。親にしかできないことを絶えずアップデートして事業化できればよいのだろう。しかし「先輩から引き継がれたもの」を更新していくのは、普通の親になかなかできることじゃない。それは「伝統行事」みたいなものだ。受け継がれてきた伝統には逆らえない。 不登校の子どもたちの親の会は、今のところ完全に分かち合いの場としてある。子が学校に通えなくなるまでの経緯、子どもの行動の変化、学校に対する親の思いなど、静かに熱く語られていく。皆が

    分かち合える「親の会」の新鮮さ - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/12/12
    "「障害」より「不登校」は突然に訪れやすく、既存の社会や学校のありようをうまく問い直せなければ、結果として子どもに寄り添うことも難しい"
  • 「普遍的なルールを順守させる」責任を背負った教育を観て - 泣きやむまで 泣くといい

    世間ではあまり話題になっていないのだけれど、映画『みんなの学校』をご存じだろうか。 大阪の住吉区にある「大空小学校」の教育を取材したドキュメンタリー映画で、制作は関西テレビ。フジテレビ系列局ではテレビ放送もあった。「平成25年度文化庁芸術祭賞大賞」をはじめ、受賞歴も数多い。 今年2月から全国で順次公開されており、ようやく地元でも上映があったので観に行ってきた。ふだん映画を観ることがほとんどなく、劇場で2時間拘束されることが嫌いな自分がわざわざ足を運んだのは、この作品の評価が「関係者」のあいだであまりに高かったからだ。 ここでの「関係者」とは「障害児」の教育や福祉に関わる人々である。大空小学校とはどんな学校か。公式サイトから引用したい。 大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で

    「普遍的なルールを順守させる」責任を背負った教育を観て - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/10/06
    局地的に大評判の『みんなの学校』の批判的映画評。まだ自分が見ることができていないので、大変参考になる。"「みんなの学校」とは手段なのだろうか目的なのだろうか"
  • 「子育て支援」の境界を崩す - 泣きやむまで 泣くといい

    ・障害児の親の会と学生たちで行う活動のおつかれさま会。参加が合計40人ちょっとか。 ・おそらくこの種の活動は廃れていく。それは活動の意義がなくなったということではない。ただ、意義を感じにくい時代になっていくだろう、ということ。 ・この活動のファンである保護者は減っていくはず。何もなかった時代には支援とつながるはじめの一歩だった。いまは一歩目になることに失敗している。それを防ぐための手立てはあるのだけれど、危機感自体が皆に共有されない。だから、何の工夫もされない。 ・すでに消極的と思われる保護者がちらほら。親の会役員になっちゃったから、仕方なく。わが子への価値が伝わってこないものから親は離れる。それだけのこと。伝える努力をしなければ、なおさら。 ・夕方のスーパーでカゴを持ったまま、保護者につかまる。まだ若い保護者も、もっと若い保護者とのギャップを感じている。昔から、同じ構図。同じだけれど、質

    「子育て支援」の境界を崩す - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/09/14
    "一部の支援者の熱意とは裏腹に薄れゆく危機感と、それに倣うように弛んでいく支援者。当たり前の目標設定と社会観が失われていく" こういう危機感は共有されにくいし、共有してどうすればいいのかも……。
  • 知らぬ間に「ソーシャルワーク」の定義が変わっていた - 泣きやむまで 泣くといい

    ・ソーシャルワークの国際定義が知らないうちに変わっていた。大学を離れ、専門職団体に属さず、学会誌にもちゃんと目を通さないと、こうなる。 ・少し詳しく調べようとして、ネットを漁ってみるが、反応しているのは「専門職団体」と社会福祉士の国家試験対策がらみのサイトだけである。この国における「ソーシャルワーク」の現状をそのまま表しているようで、なんだか切ない。 「ソーシャルワークのグローバル定義」新しい定義案を考える10のポイント http://www.japsw.or.jp/international/ifsw/SW_teigi_kaitei.pdf#search='%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促

    知らぬ間に「ソーシャルワーク」の定義が変わっていた - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/09/07
    "定義とは反対にどんどん小さくなっていく日本的ソーシャルワーク。良くも悪くも「職業」だ"
  • 「適応」を目標にしてはならない - 泣きやむまで 泣くといい

    ケース会議の論点が見えない状況にもやもやしながら、なぜこうなってしまっているのかと考える。 報告をまとめようと書き始めて気づく。やはり文章は自分をごまかせない。 問題点をみんながオブラートに包んで述べる。それがのらりくらりとかわされる。今はもううまくいっているのだと。トラブルは起きていないと。 実際にトラブルが起きていないかどうかはわからない。直接その場にいられるわけでもない。当なのか嘘をついていないかと問いただすわけにもいかない。みんな何も言えなくなる。 環境を何も変えてはいないのだそうな。だとしたら、我慢するようになったのかもしれない。あるいは「あきらめた」のかもしれない。どんなに荒れても結果が変わらないという悲しい学び。 「我慢している」ことの証明はいかに可能か。我慢できなくなったときに、はじめてわかる「これまでずっと我慢していた」こと。支援は後手後手にまわる。対応が遅れるうちに、

    「適応」を目標にしてはならない - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/08/06
    "「我慢している」ことの証明はいかに可能か。我慢できなくなったときに、はじめてわかる「これまでずっと我慢していた」こと。支援は後手後手にまわる。対応が遅れるうちに、あきらめてしまうこともありうる"
  • 「落ち着かない」の曖昧さと服薬 - 泣きやむまで 泣くといい

    これで時間ができるだろうと思ったのは勘違いだった。負担感の大きかった仕事が一段落ついただけで。 ばたばたする合間のケース会議に出ながら、「薬」に頭を悩ませる。 保護者からの訴えに応えて服薬がはじまったとき、確かにこの場合はうまく薬を使っていくことが必要かなあ、と感じた。そして、薬が狙っていたとおりに状態が安定して、やはりよかった、とも思えた。 ところが、環境の大きな変化をきっかけとして、状態がまた悪くなる。関係者が環境を改めて整えるが、どうも良くならない。すると保護者や学校の訴えに応じて、また薬の量が増やされる。しかし、もともと服薬をはじめたときに「問題」として捉えられていた部分は、今と少し違ったはずだ。「落ち着いて、家庭や学校で過ごせない」と括ってしまえば似たような課題でも、「落ち着かない」の種類が異なる。薬を増やしてしばらくが経ち、結果的に行動は穏やかになってきたし、活動にも安定して取

    「落ち着かない」の曖昧さと服薬 - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/07/12
    標的となる行動の機能分析は、投薬の際には必須だと思う今日この頃。薬を出す前にその話ができると、投薬を回避できることは確かにある。あとは常に減薬の機会をうかがい続けることかなあ。
  • 追いつかない多様化 - 泣きやむまで 泣くといい

    就学前の療育をはじめて最初の就学先の選択にいくらか関わるようになり、もう5年ほどが経つ。中学をどうするか、という悩みにも付き合っていくことになるのは必然だ。そして、中学の選択は、もっと先から逆算されたりするから、高校選択とも深く結びつく。 しかし、保護者のもとには情報が集まらない。小学校への就学時以上に集まらない。「保幼小」の連携はあるが、「小中」の連携はどうやらあまりない。「普通学級」と「支援学級」のあいだで、通級指導も含めて、子どもの状態に応じた選択を続けていけるような雰囲気がない。そして囁かれる「支援学級に行ったら、もう普通学級には行けない」「支援学級に行ったら、もう普通高校には行けない」という制度的には何の根拠もない情報。法規のレベルでいくら確認したところで、運用のレベルで前例に引きずられたり、教員が気で進路指導にあたる気がなければ、保護者はただ分厚い壁の前に立ち尽くして、無力を

    追いつかない多様化 - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/05/16
    "子どもの多様化に追いつけない学校の多様化。福祉は未熟でも少しばかり多様化した。教育の発展はどこに向かっているのだろうか"
  • 発達理論から見た発達障害 - 泣きやむまで 泣くといい

    そだちの科学 24号―こころの科学 特集:発達障害と発達論的理解 作者: 小林隆児,滝川一広出版社/メーカー: 日評論社発売日: 2015/04/10メディア: ムックこの商品を含むブログ (2件) を見る 精神医学において「発達障害」と「発達理論」が「まったくつながっていない」という認識からまとめられた特集号。 フロイト、ラカン、ユング、ワロン、ピアジェ、エインズワース、エリクソン、ボウルビー、ヴィゴツキーらの理論から発達障害を理解すると、どんな知見が得られるか、というあまり読んだことのない中身。研究者の名前が冠されているような理論がそれぞれの観点から「発達」を説明(意味づけ?)しようとするのであれば、「発達障害」についても独自の貢献ができるのではないか、というのは期待されるところだ。「定型発達」と「発達障害」を分断しないアプローチとも言えるだろうか。 ただ、企図した「つながり」は作れ

    発達理論から見た発達障害 - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/05/10
    『そだちの科学』、最近しばらく買ってなかったんだけど、またちょっと読んでみるか、と思った。
  • 「子どもの貧困」対策を「障害児」の支援者が見たら - 泣きやむまで 泣くといい

    貧困のなかでおとなになる 作者: 中塚久美子出版社/メーカー: かもがわ出版発売日: 2012/10/01メディア: 単行この商品を含むブログ (1件) を見る ひょんなことからひとり親家庭の支援に関わることになりそうで、読んだ。 これまでも「当たり前の暮らし」とは何だろうか、と仕事の中で考えさせられてきたけれど、子どもの貧困についても同じだ。 「医療」のような生存に直接関わってくるものを欠けば、誰もが問題だと思う。しかし、たとえば「教育」はどこまで必要か、と言われれば、よくわからなくなる。 「そんなことはない。ほとんどの子どもは高校ぐらいまでは進むのだから」と言われるだろうか。それでも、高校で学んだことが実社会で役立つから高校に行くのではないと思う。将来に向けて具体的な夢や目標があって、そのために必要な勉強をしよう、でもない。 社会に出るには、大学に行ったほうが有利だ。大学に行くには、

    「子どもの貧困」対策を「障害児」の支援者が見たら - 泣きやむまで 泣くといい
  • 「この子は障害児じゃない」が否定するもの - 泣きやむまで 泣くといい

    なんで「この子は障害児じゃない」とか軽々しく保護者に言う「事業所」があるのだろう。さらに親の育て方を責めはじめるとか、自分の理解を超えている。 「障害」を診断のように「客観的」な基準に基づこうとするものとしてとらえずに、個人の主観が入り込むことをひとまず認めるとしよう。その支援者からみて「障害児」でない子どもがいたとして、それを「障害児じゃない」ということにいったいどんな意味があるのか。 事業所に来るのは、親が悩んでいるからであり、子どもが困っているからだ。「障害じゃない」なら当事者の感じている困難さは幻なのか。親は「うちの子が障害児だから支援してほしい」と願っているわけではなく、ただ「困っているから支援してほしい」のである。 にもかかわらず、ただ「困っている」と訴えるだけでは十分な支えが得られずに、あれやこれやと責任を問われる。そこで、支援を得るための根拠として「障害」というラベルを徐々

    「この子は障害児じゃない」が否定するもの - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/04/08
    "それを言ったのが、この業界にはけっこうたくさんいる「保護者から支援者になった人」である、ということに、改めて「私は自分の子どもをちゃんと育てた」という自信は、本当に支援者としての成長を阻むと感じる"
  • 「できない」に対する「できる」ではなく - 泣きやむまで 泣くといい

    教育が「教える」のは「できる」ようになることを目指すからだ。何ができるか、の水準はいろいろあるけれど。 ・福祉が「できる」ようになることを目指すことがある。「福祉」にそれを求める親もたくさんいる。 ・支援には目標が大事だと言われる。そして、それを達成したかどうかが問われる。「療育」の「計画」に目標が書き込まれて、「できる」ことを支援者が目指す。 ・支援者の目標は、子ども自身の目標とは違う。とはいえ、子どもの「できる」といつでも切り離して考えられるわけでもない。「余暇を楽しむ」ことでさえ、能力と切り離すのは難しい。 ・「楽しむ」というのは「楽しめるようになる」ということでもある。楽しいから楽しい、ことばかりでなく、楽しいとわかるようになったから楽しい、ということがある。それはひとつの学びだ。 ・「できる」ことが子どもの自信や喜びにつながることがある。「できる」ことが子どもの快適さにつながる

    「できない」に対する「できる」ではなく - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/04/04
    「できる」ではなく「やりたい」を目標にすること。そのために、人生の中で好きなものを増やすことを目標にするのが、無難なやり方で医者好みかな。これも若干危なっかしいところもあるのだけれど。
  • やめてほしい3つの助言 - 泣きやむまで 泣くといい

    来年度も支援学校評議員をさせてもらえるようだ。 来年こそ評議員会で言いたい「支援学校の先生にやめてほしい『保護者への3つの助言』」。 「卒業後に向けて、お金をたくさん貯めておけ」 ・・・通所や入所に多額の手付金を求める社会福祉法人があるから。 「福祉事業所を複数使いなさい」 ・・・理由よくわからず。リスクマネジメント? 「ひとりで電車やバスに乗れるように練習しろ」 ・・・送迎してもらえなくても行ける作業所が増えるから。 保護者はどれに従っても、結果的に「子どもを事業所にたくさんまかせる」ことにしかならない。そして、言ったほうはその重みがわかっていない。

    やめてほしい3つの助言 - 泣きやむまで 泣くといい
  • いっしょに助走をとる支援 - 泣きやむまで 泣くといい

    電車での移動中はひとりで静かに作業などしたいのだが、同じ場所へと向かう他事業所の長につかまってしまい、たくさんしゃべり続ける羽目に。帰りも無視するわけにはいかず、地元に帰ってきてもさらに話し続ける。 子どもをたくさん事業所に通わせようとする親に対して最初から厳しい姿勢を見せて、嫌われたりすることに自嘲的でありながらどこか誇らしげでもある支援者がしばしばいる。親であり支援者でもある人には、特に。 過剰と思えるほどたくさんの日数を利用したいと望むとき、その保護者にとっては何らかの必然性とか合理性があるはずだ。自分で「異常」と思っていたら、そんな要求は出てこない。 だから、その親にとって何がスタンダードであるのか、何が必要であるのか、を理解しなければいけないのだけれど、率直に言いたい。一度や二度会って、話を聞いたところで、そんなことはわからない。わからないのに、支給日数や契約日数をはっきりさせた

    いっしょに助走をとる支援 - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/03/26
    "。ただでさえ、相談支援事業所はサービスと結びついて理解されやすいと思うけれど、サービス利用計画のせいで余計にサービスなしの相談がイメージされづらくなってはいないだろうか"
  • 利用計画狂想曲 - 泣きやむまで 泣くといい

    関係者向けの内容になるが、わが地元自治体は児童のサービス利用計画がまったく進んでいない。 計画相談の指定を受けている唯一の事業所が「大人の相談で目一杯なので児童の計画は作成できない」というのだから、当然である。実質的に児童の相談支援事業所がゼロという悲惨な事態。行政は、代替プランのことなど一切触れることなく、しれっとセルフプランを推奨してくる。様式を行政が決めないので、自分が作った様式がなんとなく地域のスタンダードになった。 この「セルフプランを立てて役場に出してね」という案内が出されたのが2月半ばである。この2月半ばの案内ではじめて利用者は「さーびすりようけいかく」というものを立てねばならないことを公式に知らされたことになる。3年前からはじまっている仕組みを。 ついでに言うと、受給者証の更新時期が4月以降のところには、その案内さえ送られておらず、国のおっしゃる「3月末までに全員作成」は確

    利用計画狂想曲 - 泣きやむまで 泣くといい
    AFCP
    AFCP 2015/03/19
    "大法人がますます有利になり、零細法人がますます追い込まれる制度設計は、社会福祉法人の大規模化を進める流れとも一致している"
  • 「利用者のため」が虐待に行きついたとしたら - 泣きやむまで 泣くといい

    業界関係者には、それなりに衝撃が走っているのではないか、と思う。 障害者施設で虐待か 長崎県が処分 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150226/k10015779301000.html 世間は「また虐待か」ぐらいの印象かもしれないが、その障害者施設の運営法人が「南高愛隣会」である。「誰もが優良企業と思ってきた会社の不祥事」ぐらいの意味をもっている。「マクドナルド」や「ワタミ」が事件を起こすのとは、わけが違う。 改善命令を受けたのは、障害者の生活援助や就労支援を行っている雲仙市の社会福祉法人、「南高愛隣会」です。 長崎県によりますと、この法人が運営する雲仙市などの4つの施設で、平成17年ごろから平成24年にかけて、▽興奮状態になった男性の利用者を職員が馬乗りになって押さえつけあばら骨を折るけがをさせたり▽宿直の男性職員が障害のある女性利用者に複数回にわた

    「利用者のため」が虐待に行きついたとしたら - 泣きやむまで 泣くといい
  • 支援はデマンドに寄り添うことから - 泣きやむまで 泣くといい

    某所で安井(大友)愛美さんのお話をお聞きしてきた。はるばる北海道から来てくださっての5回連続講座。テキストは以前にも紹介したである。最後は、短い時間だが、トークセッションのようなことまでさせていただけた。主催者には、ただ感謝の言葉しかない。 やはりすごい人だった。何の制度にも支えられずに障害児者の支援をはじめた実践は、相手との関係、社会との関係、自分との向き合い方、すべてをいつも省みながら調整してきておられた。その結果としてたどりついた地点は、ソーシャルワークの教科書に書かれていることであったり、社会哲学としては素朴なことであったのかもしれない。大学でも勉強できることだ。しかし、そこに「経験」から改めてたどりつけるのは容易なことではない。 経験豊かな人間はどこにでもたくさんいるのである。現場で何十年と支援経験を積み重ねている者を見つけるのは簡単だ。にもかかわらず、そのすべてが優れた支援者

    支援はデマンドに寄り添うことから - 泣きやむまで 泣くといい
  • 「ちょうどいい責任」だけを背負えない社会で - 泣きやむまで 泣くといい

    自閉症連続体の時代 作者: 立岩真也出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2014/08/26メディア: 単行この商品を含むブログ (6件) を見る 一読した後に「自分にとってはそれほどインパクトのある内容ではない」と思ったのだが、いくつかのニュースと世間の反応を見て、やはり意義があるなのだと思いなおした。けっこう時間が経ってしまったのでタイムリーとは言えないけれど、書き留めておきたい。 もう数週間前のことになるだろうか。視覚障害をもつ高校生が白杖につまづいた中年男性に蹴られる事件が起きた。世間の反応は「なんてひどいことを」であった。少しして「蹴られる方にも非がある」という声があがりはじめた。すぐにそのような声に対する批判もまた巻き起こった。 そこに、どうやら犯人がわかった、という報道がなされる。知的障害の男性だったと言う。そして、その後の報道はあまりなされなくなったような印象もある

    「ちょうどいい責任」だけを背負えない社会で - 泣きやむまで 泣くといい