先日、Ph.K.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を読んだ。そこに流れるアンドロイド観はドラえもんやらHMX-12マルチの国の人間である私にとっては少々縁遠く感じるものであった。この小説では周知の通り人間とアンドロイドを識別する基準として「他者に対するシンパシーの有無」を挙げており、将来的にはアンドロイドはこの感情すら獲得し得るようになるだろうということを匂わせて終わるのだが、他者に対する共感どころか自分自身に対しても何の情動も持ち合わせることができない人間が増えている昨今では、なぜアンドロイドを殺さねばならないのかについての必然性が作者の意図と問題意識もあって曖昧にならざるを得なくなっている。時折ハックスリの小説を想起させるやり方で人間性の図式を反転させてみせるこの小説の問題提起は、それ自体としては大いに示唆的であった。即ち、我々が自分以外の存在者を「人間」として認識するとい