郷士の差別にはどんなものがあったのか詳しく教えてください。 郷士の差別についてですが、土佐藩の身分は下のように、大きく分けて上士と下士の2つに分かれます。 上士は、「家老、中老、馬廻組、小姓組、留守居組」の5つです。 下士は、「郷士、用人、徒士、足軽、小者」の5つです。 このように郷士は下士の最上位に位置付けられており、その中でも特別格が白札郷士になります。 上士とは、関ヶ原の戦いの後、土佐に入国してきた山内氏が連れてきた侍がおもで、郭中(かちゅう・かくちゅうとも言う)と呼ばれる高知城周辺の決められた場所に屋敷を持っていました。 下士たちは、この郭中に屋敷を持つことを禁じられ、郭中の西側にある上町や、反対の東側にある下町や、村に住んでいました。龍馬の家は上町です。それからこの郭中では、下士たちは日傘をさすことを禁じられていました。ただし、1760年以降は上士に無礼の無い限り許されていました
1609年、琉球王国が江戸幕藩体制の影響下におかれるようになる島津侵入事件。それは強者による単純な軍事侵攻だったのだろうか。史料を読み解き、琉球と島津氏、統一政権をまじえた、半世紀におよぶ政治的な駆け引きを追う。緊迫感あふれる外交展開を描き、「強圧化」「従属」と一面的に評価されてきた、琉球と薩摩の関係の本質を浮き彫りにする。 四〇〇年の彼方へ―プロローグ/尚元と島津貴久(第二尚氏王朝/戦国大名島津氏/あや船と印判/五五年体制)/尚永と島津義久(二つの代替わり/義久へのあや船/戦国大名島津氏と印判/尚永の外交転換)/戦国大名の武威(拡大する島津領国/織田信長と義久/地域の公儀として/譲歩する尚永)/尚寧と島津義久(天下人のもとで/尚寧と天下人秀吉/打ち上げられた唐入り/義久の外交ルート)/島津侵入事件(出兵の理由/不思議な文書/出兵前夜/尚寧の出仕)/琉球と島津の半世紀―エピローグ
戊辰戦争最後の舞台となった「五稜郭の戦い」。箱館開港と明治新政府への統治移行、榎本武揚率いる旧幕府軍の五稜郭占領から開城にいたる経過を辿り、両軍の戦闘を詳述する。「蝦夷島政府」の行政と松前藩など地域社会との関係、巻き添えになった地元住民の被害、戦死傷者の扱い方などを描き出し、戦いを近世北方世界の終焉として歴史の中に位置づける。 持ち込まれた戦争―プロローグ/幕末・維新期の箱館(箱館開港と蝦夷地対策/幕末箱館の都市景観/戦いの場となった主要施設)/箱館奉行所から箱館裁判所へ(五稜郭最後の箱館奉行/箱館裁判所への引き継ぎ/箱館裁判所・箱館府の治政/東北戦争と箱館府/松前藩の政変)/榎本旧幕府軍の五稜郭占領(榎本旧幕府軍の形成/五稜郭の戦いの始まり/榎本旧幕府軍の箱館占拠/旧幕府軍と松前藩との戦い)/榎本政権の占領統治(蝦夷島政権の誕生/条約国との関係/民政と民衆)/新政府軍の反攻と榎本政権崩壊
{"_buckets": {"deposit": "89f61b1c-5881-44fc-8a20-9fb8cd993172"}, "_deposit": {"created_by": 3, "id": "21482", "owners": [3], "pid": {"revision_id": 0, "type": "depid", "value": "21482"}, "status": "published"}, "_oai": {"id": "oai:waseda.repo.nii.ac.jp:00021482", "sets": ["1696"]}, "author_link": ["36047", "16573"], "item_10002_alternative_title_163": {"attribute_name": "その他のタイトル", "attribute_val
幕藩体制下に弾圧されたキリシタンは、明治政府によって解放された――。このように思われている「日本社会の近代化」は、歴史の真実なのだろうか。そもそも、「キリシタン」とは何なのか。非キリシタンであったにもかかわらず、領主の苛政に一揆を起こした民衆を「切支丹」として弾圧した事例や、問題化を避けるために、穏健なキリシタン百姓を黙認した事例などを取り上げ、歴史と宗教のかかわりに新しい視野を提供する。 幕藩体制下の禁教政策により、厳しく弾圧されてきたキリスト教徒=キリシタンは、江戸幕府が倒れ、明治新政府下では信仰の自由が認められ、解放された――。一般にこのように思われている「日本社会の近代化」は、歴史の真実といえるだろうか。そもそも、「キリシタン」とは何なのか。従来のような「ひとつの村が、近世初期から明治まで、ひたすら信仰を守り続けた隠れキリシタン」といった平板な理解に再考を促す。 例えば、非キリシタ
『西郷隆盛と幕末維新の政局 体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論争』を読んだ。面白かった。 西郷隆盛と幕末維新の政局: 体調不良を視野に入れて (大阪経済大学日本経済史研究所研究叢書) 家近 良樹 ミネルヴァ書房 売り上げランキング : 646800 Amazonで詳しく見る by AZlink 西郷隆盛像というものがある。上野の西郷像ではないよ。西郷にまつわるイメージという意味での西郷像である。著者の家近さんは「ステレオタイプ化された西郷隆盛像」を次のように描く。 豪放磊落で小事に拘泥せず、寡黙でたくましい肉体と精神をあわせ持ち、かつ茫漠・茫洋とした風格を漂わせ、廉潔で決断力に富む大人物としての西郷隆盛像である。 確かに西郷どんと言えば私もそういうイメージを抱きます。もう少し具体的に言うとCMに出たとしても「チョコモナカジャーンボ!」とか歌わなそうな感じです。しかし、著者は、こうした西郷
明治政府が編纂した史料集「復古記」やその編纂材料を精査すると、これまでとは違った戊辰戦争像が浮かび上がる可能性が出てきた。 諷刺文芸・新聞・絵図・写真などの様々な史料にも着目し、戊辰戦争を多角的に解明するための方法を模索する。 はじめに 箱石大 総 論 戊辰戦争研究のための史料学 箱石大 第一部 戊辰戦争研究の最新動向 序論 戊辰戦争に関する新たな史料の発見 箱石大 施条銃段階の軍事技術と戊辰戦争―土佐藩を素材に 保谷徹 史料紹介 戊辰戦争期の会津藩による鉱山リース契約 保谷徹 戊辰戦争に関与したシュネル兄弟の「国籍」問題―ヴィルト・カワラ氏収集オランダ所在史料から 福岡万里子 第二部 戊辰戦争の基本史料研究―「復古記」の史料学 序論 戊辰戦争研究の史料となった「復古記」 箱石大 明治政府の同時代史編纂―「復古記」とその周辺 松沢裕作 『復古記』の歴史知識学的研究 赤石美奈・伊藤直之・石川
西尾 宗次(にしお むねつぐ、生年不詳 - 1635年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。越前福井藩主・松平忠直の家臣[1]。通称は仁左衛門。父は宮地久右衛門。初め宮地久作、後に久右衛門が遠江の浪人・西尾是尊の養子となって、西尾久作を名乗る。 元は武田氏の家臣。遠江高天神城の戦いでは武田軍に属しており、天正9年(1581年)の高天神城落城の際、横田尹松に従って城を脱出した[2]。文禄元年(1593年)に結城秀康の家臣となり、慶長6年(1601年)に700石と鳥銃頭の役職を与えられた。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で越前松平家鉄砲組に属し、安居神社の境内にて休息中の真田信繁(幸村)を槍で突き刺し討ち取る。その功から、徳川家康及び徳川秀忠父子からは褒美を、松平忠直からは刀などを賜り、1,800石に加増された。当時、豊前小倉藩主の細川忠興の書状には、「首は越前殿鉄砲頭取申し
このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日本のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年5月時点の調査。
江戸時代、二本差と呼ばれていた武士は、脇差と短刀をどのように使い分けていたのでしょうか。 相撲で、行司が短刀を一振り帯びているのは、差し違えた際に自害するためであったということを聞きました。 このように武家においても、短刀はもっぱら自害やその他儀礼などに単独で用いたのでしょうか。 幕府による大小拵の規定(『幕儀参考』)によりますと、 大刀 2尺2寸~2尺3寸(定寸) 脇差 1尺6寸~1尺7寸前後 (刀ハ長サ貮尺二三寸を定寸トシ、脇差ハ壹尺六七寸前後ナリ) とあります。 〔参照〕 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/yamasiroya/banzasi.html 刃渡り1尺以上2尺未満のものを脇差、1尺未満のものを短刀と理解しておりますが、「二本差」としての大刀の差し添えはあくまで脇差で、大刀と短刀を2本差すということはなかったのでしょうか。 大刀の定寸を2尺3寸とするなら
こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず、中間とは・・・。 足軽と言うと、雑用掛りのように思われがちですが、実は、れっきとした「武士」でした。従って、足軽は苗字を名乗ることができ、刀も大小2本差していました。しかし、武士階級としては、一番下級武士でした。 そして、足軽-中間-小者(または、下男)という序列のちょうど中間(ちゅうかん)だったことから、「中間」と呼ばれるようになりました。 中間は、武士ではないので、苗字も名乗れず、腰に差しているのは「木刀」1本です。 中間は、実は、戦国時代の後期からすでに存在し、当時は、「従者」と呼ばれていました。主に、主人の身の回りの世話をし、合戦があると、主人の身辺にいて武器を渡したり、馬の世話などをしていました。当然、戦闘に巻き込まれることもあり、そのような時は、主人の武器を借りて主人を守ったりしました。 やがて、江戸時代に入り、戦もなくなると、
タイトル別名 キンセイ ダイミョウ ヤシキ ニ オケル ショクセイカツ ミナトク ユウセイシ キンセイ ダイミョウ ヤシキ ニ オケル ショクセイカツ : ミナトク ユウセイショウ イイクラ ブンカン コウナイ イセキ シュツド ノ ドウブツ イゾンタイ オ チュウシン ニ Kinsei daimyo yashiki ni okeru shokuseikatsu : Minatoku yuseisho Iikura bunkan konai iseki shutsudo no dobutsu izontai o chushin ni The reconstruction of dietary patterns from faunal remains excavated from a former Daimyo's (大名) residence in Tokyo The reconstruc
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く