さて話は現在に移る。 1995年、村山内閣のもと、水俣病問題の「政治解決策」が打ち出された。申請者を公式に「水俣病」と認定しないまま、一定の疫学的条件と手足の感覚障害がある人に対して一時金260万円と医療費を支給、またこの対象外でも一定の条件を満たす人に医療費の補助を行う、救済を受ける被害者は、それまで行っていた訴訟や自主交渉を取り下げる、というものである(条件についてはここを参照)。 この政策は、水俣病認定申請を却下もしくは保留されていた人たちが認定と救済を求めて起こしていた複数の裁判で、90年以降次々に裁判所の和解勧告がなされてきたことを背景に打ち出されたものだが、高齢化の進む患者側も多くの患者団体がこれを受け入れて裁判を取り下げた。唯一、受け入れを拒否して裁判を継続したのが関西訴訟である。 政治解決の時点ですでに控訴審だった関西訴訟は2000年7月に結審、翌2001年4月の判決