安倍総理とプーチン大統領が平和条約交渉の基礎と位置づけているのが、1956年の日ソ共同宣言です。このときの北方領土をめぐる交渉の生々しい舞台裏をつづった外交官の手紙を、JNNは入手しました。手紙は、当時アメリカが日本に突きつけた恫喝的な要求にも言及。現在にもつながる外交交渉の複雑さを物語っています。 現在は空き家となっている都内の住宅。古びた箱からは何通もの国際郵便が出てきました。 「米国のダレスはソ連が千島列島をとるなら、琉球は米国がとると乱暴なことを言い始めました」(松本俊一全権大使が妻に宛てた手紙) 一目見たロシア政治史の専門家は・・・ 「すごいもんですね。手が震えるような資料ですね」(ロシア政治に詳しい 法政大学 下斗米伸夫 教授) 国際郵便の送り主は60年前の外交官。当時、ソビエト連邦との北方領土交渉に当たった松本俊一全権大使です。 「全国民のご要望に添うよう、最善の努力を続けた
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。 郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。 書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。 調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く