旧会津藩の砲術師範の家に生まれ、男装で城に籠もって戊辰(ぼしん)戦争を戦った新島八重(1845~1932)が、白虎隊の悲劇を語った講演記録が、岡山市の山陽学園大で見つかった。 八重は各地で講演したが、記録はほとんどなく、研究者は「八重の足跡に光を当てる資料になる」と注目している。 記録は、八重が1909年(明治42年)5月、旧山陽高等女学校(山陽学園大系列校の前身)で語った内容で、講演直後の同年7月発行の校内誌「美(み)さを」に掲載されていた。 記録によると、八重は、講演が国家のために命を落とした人々を慰霊する「招魂祭」の日に重なったことに触れ、士族子弟らからなる白虎隊の悲劇を詳細に説明した。 自ら隊員3人に鉄砲の撃ち方を教えたことを明らかにし、彼らは「雑兵の手にかかり、梟首(きょうしゅ)(さらし首)せらるるよりも、潔く自殺する方がよいと、健気(けなげ)にも腹をさしちがへ」たと述べている。