文学というようなものは、殆ど読んだことがなかった。若い頃はとにかく活字が嫌いだった。読むものといえば雑誌ばかりで、そこから断片的に情報をつまみ食いするための道具としてしか、活字を扱ってこなかった。それが40年近くも続いたのだから、私の馬鹿は、その頃に決定的になったようなものだろう。 けれども、自分でテクストを書くようになると――その多くはWebLogとしてだけれども――、文学を含めた、〈他者〉の書いたテクスト(本)も少しは読むようになった。だからと言って、なにかよいことがあったのかと言えば、それはわからない。ただそれは〈他者〉の頭を借りて考えているようなものだと感じている。 コギト さらには、本を読むときにも、コギト的にもう一人の〈私〉がいるのを感じるようにはなった――つまり、もう一人の〈私〉は、〈他者〉の頭を借りて考えている〈私〉を見ている。たぶんそれは、書く事(反省)から生まれたものだ