昨日で全学授業「60-70年代のロックジャイアンツを聴く」の全講義が終了した。最終回はT・レックス(マーク・ボラン)。途中、マーク・ボランの「声」の特殊さをいおうとして、ふとロラン・バルトの「声のきめ」の話をした。 「声」は描写できない。それをかたる語彙がないのだ。ただしみずからの好悪は歴然と人の声にきざす。ということは、それをひとはエロス覚でとらえるしかない。 同時に声は「選別」だ。男声と女声はほぼ聴いた途端にその性別を判断できる(その中間にあるものも「いかがわしさ」として即座に判別できる)。同時に親しい者の声は、たとえば通りすがりに姿をみないままでも、そのひとの声と類別できる(似た声があったとしても)。ならば声はその者の個別性の極みというべきなのだろうが、上述したようにこれが記述可能性とは無縁なのだ。つまり個性はその芯に記述できない脱意味をかかえこんでいるということになる。 声には系譜