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雑記 | 02:50 | 先日、美容室に行ったときに読んだ雑誌に、「女子力」という言葉がずいぶん出てきていた。そういえば、最近よく聞く言葉だけれど、改めて考えると何を指すのかわからないところがあったので、今日はこれについて考察してみたい。 1.「女子力」の定義世間では、「女子力」をどのように定義しているのだろう。いくつかネットで拾ってみた。「キレイになりたい」と願い、行動する力(女子力向上委員会のサイトより)「女性の、メイク、ファッション、センスに対するモチベーション、レベルなどを指す言葉。」(はてなキーワード「女子力」より) なお、はてなキーワードでは、「女子力」の定義に関して諸説を紹介していた。女子力=下着力説 女性の品格や美しさは、目に見えるところだけではなく、見えないところにも美を追求しようとする「精神」から生まれるものであり、下着のオシャレを楽しむことが女子力につながるとする説
資料に西村清和『現代アートの哲学』(95年)をひっくり返していたら、ヒロ・ヤマガタとラッセンにかんする記述があったのでメモ。『現代アートの哲学』は、たぶん大学の教科書として書かれたものだが、名著なのでアート方面に興味のある人は読んでおいたほうがいいですよ。現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)作者: 西村清和出版社/メーカー: 産業図書発売日: 1995/10メディア: 単行本第四章「キッチュと悪趣味」章末に添えられた確認問題にこんなのが出てくる。最近、アメリカの画家、クリスチャン・ラッセンの、いわゆる「マリン・アート」、つまり南国の海、椰子の木、夕日、海のなかで躍動するイルカたちのイメージで構成された絵画やその複製が、流行している。これと似たものに、ヒロ・ヤマガタの都会の町並みをポップに描いた絵がある。はたしてこれらはキッチュなのか、それともアートといえるのだろうか。「キッチュ」につい
あるきっかけで、グーグルイメージで「変顔」で検索したら、いろいろな人たち(若い女性たちが中心)の変な顔を思う存分見ることができた→こんな感じに。 それにしても、いつの間に変顔はこれほどまでに浸透したのであろうか。ついこの間のトリノオリンピックでも、カーリング女子日本代表のマリリン(アナウンサーもそう呼んでた)がTVカメラに向かって変顔して、彼女はそれで一躍大人気になったようなものである。 74年生まれの僕は、中学や高校生の頃に変顔をやっていた記憶はない。やっていたとしても、中1のときに友達の家で絵の具で顔にペイントして上半身裸になって「ミスター・ポーゴ*1だ!」とかそういうことくらいだ。その写真は実家にあるので、ここにアップできないのが残念極まりないが、リアル中坊らしく我ながらとても素晴らしい。 さて、変顔とはいったい何なのか──べつに真面目に考えるほどのことではないのだけど、ちょっと推測
小熊英二氏は、「いま歴史教育に何が求められているか――可能性としての日本」(一九九九年、『私たちはいまどこにいるのか』所収)という文章の中で、身分制社会(江戸時代)の教育と明治以降の近代教育の違いについて、実に興味深いことを言っている。 たとえば江戸時代には「寺子屋というものがあり、藩には藩校というものがあり、読み書きそろ盤を教えたといわれている」が、これはわれわれが馴染んでいるような小学校とは全然違う。そもそも「社会のつくり方の前提」が違っているので、農民、武士、商人といった身分に生まれた者は、将来それぞれ農民、武士、商人になることが決まっている。だからそれぞれの身分によって、学ぶこと、習うことが違う。たとえばそろ盤を教えているのは、「主に都市部の商人の子どもを相手にした学校」が中心になっている。また、読み書きといっても、主に「手紙の書き方」を教えていることが多い。これは、「主に農民のな
数日前のニュースで、福島市の住民たちが地元医師を招いて開催した講演会で、内部被曝をめぐる質問が相次いだという報道があった(「内部被曝の不安拡大、独自検査決めた自治体も 福島」 朝日新聞、2011/6/18)「私、あの爆発の後、子どもを散歩させたんです。道の草触らせちゃった。内部被曝したんでしょうか」「個人で専門的な病院にかかるしかないのでしょうか。私の不用意で将来子どもががんになったら、本当に申し訳ない」 昨日図書館で『チェルノブイリは女たちを変えた』(社会思想社、1989年)という本を見つけた。 これは、ソ連のチェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)を受けて、西ドイツの女性たち(15人)が同年8月に刊行した原書から11人の文章を翻訳し、これに西ドイツ在住のフリーライター山本知佳子氏の「三年後のプロローグ」を加えて出版したものとのこと(出版社紹介に高木仁三郎氏も協力したらしい)。
BL 男性のジェンダーロールを逃れたい ジェンダー的葛藤を迂回するには、男性キャラクターではなく、少女に感情移入すれば良い。(中略)さらにゼロ年代も後半になってくると、【男性のジェンダー・ロールから逃れたい】というニーズだけでなく、【女性のジェンダー・ロールを獲得したい】というニーズも目立ちはじめるようになってきた。なぜ少女が湯水のように消費されるのか――男性オタク界隈における少女の消費状況について―― 家父長制っぽく威張れる自信もないから、「男性のジェンダーロール」がくるしい。何しろ、それを可能にする終身雇用制が破壊されたゼロ年代にはなにをいわんや。労働問題が成人男子の非正規労働化によって、本格化したことは記憶にあたらしい。 「成人男子が非正規労働なんだぞ!大変だー」 女はずっと非正規で低賃金だ。家族単位でみれば、低賃金たいしたことない?旦那の給料あるじゃん?ってじゃぁ、独身女は延々に貧
『川の光』が国内外で高い評価を得た演出家・アニメーターの平川哲生氏と、成瀬巳喜男の研究者でアニメにも造詣の深い大久保清朗氏の深夜のツイート。 bokuenというわけでアニメ『電波女と青春男』は4、7、10話が私のコンテです。シャフト初参加でまさかの連投。超勉強になりました。意外かもですが新房さんの作品は『サザエさん』とか『ドラえもん(芝山時代)』に近いスタイルだなと思いました。あとコンテを描くために古い邦画を見直す必要があったり。link bokuenいわゆるシャフト角度をどこで出すか迷ったんですが「成瀬巳喜男の逆光演出と同じところだ!」という結論に至りました。ここらへんの話、大半の人にとっては意味不明だと思いますが……。link bokuenいやしかし私が新房作品について書くとヘンな誤解が広まりそう……。link tamatowa……シャフトに成瀬とは狙い撃ちされているな。link bo
アニメーションと、いうわけで『魔法少女まどか☆マギカ』の完結編見ました。ぶっちゃけ、内容やら結末やらあれやこれやよりも、深夜アニメの完結編を、一ヶ月ちょい待たされた上で一時間半がっつり見られる*1という、この受容体験そのものがあまりに贅沢で、それをまずは指摘したいといいますか、何と言いますか。正座待機の末、ド深夜の二十七時から、終局に向けて突っ走る物語に対してがっぷり四つに組み合うってのはまぁ、物語を受容する上での一回性でいえば、相当貴重な体験だったのではないかと思います。んで、これを見た若いワナビ諸君が十年後どういう物語を作るのでしょうね、という見方は底意地悪いにしても、たとえばある世代がエヴァを「受容体験」の位相において特別視するように、ある世代にとっては『まどか☆マギカ』が特別な「受容体験」になったのではないかと思います。オタク世代論やら年代論やらはあまり好みではないのでそれについて
Twitterにも書いたけど俺は二十代半ばから終わり頃まで村上龍が好きだった。けどこのところずいぶん離れていた。もう五年くらいは彼の小説を読んでいない。もっと読んでないかもしれない。そしてTumblrで以下のNYTへの寄稿文を読んでもう全然受け付けないことが、今更ながらよく分かった。 危機的状況の中の希望 - Time Out Tokyo (タイムアウト東京) 受け付けないと書いたが、なんだろう、幻滅と言った方がいいかもしれない。 彼の文体は変わらない。いつもの通り。が、中には何も入っていない、そんな感じだ。だが彼の書く曖昧な「希望」、あれはいったい何だ? あれは絶対に被災者たちのものではない。今、避難所でひもじい思いをして凍えている人々の心に芽生えているものではない。目の前の状況で生き延びるのに精一杯な彼らの胸に芽生えるものではない。 そうではなく、あれは高級ホテルでウィスキー片手にテー
前から気になっていた朝吹真理子「きことわ」(『文藝春秋』20011年3月号)を読んだ。まず思い浮かんだのは、「キュビスム」と「怪談」というキーワードだった。 花田清輝氏はどこかで、西洋のシュルレアリスム絵画をわざわざ追い求めなくても、日本には妖怪の絵がすでにあるではないかという趣旨のことを書いていたと記憶する。 それを念頭に置いて言えば、朝吹真理子「きことわ」は、ある種の怪談を西洋絵画的な手法で描いているのではないかという気がする。 芥川賞選評で、この作品について、池澤夏樹氏は、「いくつもの時や光景や感情がアニメのセルのような透明な素材に描かれ、それを何枚も重ねて透かし見るような、しかもその何枚もの間に適切な間隔がおかれて空気遠近法の効果があるような、見事な構成」と評しているし、山田詠美氏は、「後ろ髪を引かれる事柄について書かれた小説は数多くあれど、後ろ髪を引くものそのものを主にした小説は
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とある仕事で、話題の人物・石原都知事の本を読み返していた。 石原慎太郎の小説は、肌にあうものが少なく、代表作のひとつ「太陽の季節」も、「どうです! 若者らしいでしょう!」という押しつけがましさが嫌だった。 もっとも昔の青春小説なのだから、そう感じるのもしょうがないけれど、「太陽の季節」に限らず、まず既成モラルへの挑戦というテーマうんぬんの前に、ヨット、ボクシング、モーターボート、ナイトクラブ、親分の息子とつるんで豪遊とか、体育会系で友人自慢な感じが鼻持ちならず、なにかといえば金持ち大学生であったりとか、職業が医者という設定なども気に食わなかった。「ヨットなんか知らねえよ、タコ!」というか。 もうひとつの代表作・長編「化石の森」にしても、長すぎて読めなかったが、とにかくドストエフスキーがやりたかったんだろうなあと思った覚えがある。 そんなわけで合わない作品が多いけれど、数年に一度は読み返して
動物ゾウのうんこは未消化の植物が多く含まれているのでフンコロガシが喜ぶ。野うさぎは一回で十分な消化ができないので自分のうんこ食う。同様にモルモットも食糞する。ニワトリは腸内細菌がビタミンをつくってくれるのでやはり自らのフンをついばむ。ウマが馬房で食糞してるのは暇すぎるからだ。ヘラジカやガゼルの母親は仔の糞尿を食う。匂いを残さないため。 公園で犬の落とした糞からメタンガスを集めてガス灯の燃料に。うんこキレイ。セセリチョウの幼虫はうんこを5フィートくらい遠くまで飛ばす。人間でいえば240フィート(73メートル)飛ばすくらいのウン擲パワー。20年くらい前に野毛山動物園のサル(チンパンジーだったかな)が、僕のすぐ横にいた外国人旅行者にうんこを投げつけた。ブロンドヘアーの女性であった。今はアクリル板があるはず。5年くらい前に川端通三条付近で早朝、カラスが大量に飛んでいてフン落とされたらかなわんなーと
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