彼女たちの運命は慰安婦ほど劣悪なものではなかったが、強制的に受け入れざるを得なかった。広島と長崎に投下された原爆によって、彼女たちと日本の「夫たち」との関係は終わりを迎えた。その中には自身の子供がその後、日本で父親に会う機会に恵まれた者もいるという。 「ハラダ(Harada)は自分自身のために私のなにもかもを欲しがりました。農場を訪れる者たちが私の存在に気が付くことはありませんでした。農場に来客があったとしても、私は姿を見せることを禁じられていたからです。来客は他の女性たちが十分な奉仕をしていました」(パンディル・クラナの小説『カダルワティ-五つの顔を持つ女』、41頁) 日本軍の足元に落ちた女性の全員が慰安所に入れられ、従軍慰安婦となった訳ではない。女性たちを自らの手元においた日本人将校や管理者もいた。彼らとは単にハラダ、すなわち冒頭で引用した小説『カダルワティ』でカダルワティを妾の類にし
韓国・朝鮮人女性だけではない。日本政府はようやく、太平洋戦争時に日本軍が設置した慰安所に朝鮮半島、中国、そしてインドネシア出身の女性がいたことを認めた。 インドネシア人従軍慰安婦の存在は日本政府が公開した資料127点のうち4点に明記されている。うち2点は防衛庁に、残り2点は厚生省に保管されていた。「それらは元日本兵の間では公然の秘密となっていた」とある外務省(Gaimusho)高官は語った。 しかし、実際には日本兵のみの秘密ではない。この問題は複数のインドネシアの小説や映画で描写されてきた。1981年に出版された小説『カダルワティ(Kadarwati)』では、スマランで日本軍が設置した慰安所に何度も言及している。作者はパンディル・クラナ(Pandir Kelana)、スラメット・ダヌスディルジョ(Slamet Danusudirdjo、退役軍人)少将のペンネームであり、関税局長を経て、最終
インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年8月8日)に掲載された「慰安婦」とされたインドネシア人女性「フミコ」の証言の翻訳です。 バンカ島パンカルピナンのある家では70歳の老婦人が日がな賭博に興じていた。彼女に言わせれば、それが過去を忘れる何よりの方法だという。あれから50年の月日が過ぎた現在でも、当時の記憶は彼女の重荷となっている。 彼女には韓国人女性のように集団で日本政府に抗議し、賠償を求める意思はない。彼女は当時を語り得る証人のひとりであるが、日本軍が専用の慰安婦とするべく少女や成人女性を探し求めたという、彼らの残虐さについては沈黙を守ってきた。そんな彼女から当時の話を聞き出すことは容易ではなかった。彼女は過去を忘れた訳ではない。その全てを、子孫を辱しめる過去すべてをなぜ話す必要があるのか、それが分からなかったのだ。最終的には自身の体験を語ってくれたが、その際、誌面では本
インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年8月8日)「禾尉が記した13ページ」の翻訳です。禾晴道中尉が1975年に出版した手記『海軍特別警察隊‐アンボン島BC級戦犯の手記』をもとにアンボン島での慰安所の現状を紹介しています。また、禾氏の前任地であるマカッサルの慰安所についても若干の言及があります。 もし仮に前述の、強制的に従軍慰安婦にさせられたというフミコの証言に確信が持てないとすれば、以下に ある日本人将校の証言を引用してみたい。彼の名は禾(のぎ)晴道。現在71歳、大阪に暮らしている。大東亜戦争期に中尉としてインドネシア東部地域に着任した。1975年には225ページの手記『海軍特別警察隊』を出版した。本文は当然 日本語で書かれているが、その著書には「慰安婦狩り」と題された13ページにわたる章がある。以下は、その章からの引用(※訳注)である。 ※訳注-上記記事原文の記述では日本
インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号(1992年7月25日)から「スマラン事件」に関する能崎清次中将の証言を紹介します。これは当時、テンポ誌のオランダ支局記者がデン・ハーグにある国立公文書館で発見した資料に基づいて書かれた記事です。 <スマラン事件:1944年2月にインドネシア・ジャワ島中部スマランで発生した日本軍によるオランダ人女性の強制連行およびが民間人抑留所に収容されていたオランダ人女性35名を強制的に慰安所へ連行し、売春行為を行わせた事件。戦後、オランダ軍による軍事裁判で慰安所開設や女性の連行に関わった日本の軍人および民間人の慰安所経営者ら13名が強制売春、強姦などの罪で裁かれた>
もし仮に三人の韓国人女性が昨年12月上旬、自身の身の上を包み隠さずに語ることがなければ、おそらく日本軍による従軍慰安婦の事件が暴かれることはなかっただろう。彼女たちは恥の意識から、公表まで45年もの歳月を待たねばならなかった。身寄りがなくなったことで、ようやく意を決して自身の運命を語るに至ったのだ。 大東亜戦争やそれ以前の歴史において、朝鮮半島はおそらく日本による最も残虐な行為を受けてきた地域だろう。従軍慰安婦はこの地で初めて設置された。慰安婦とされた女性は他の地域と比較しても朝鮮半島出身者が最も多い。日本は中国を支配する足掛かりとして朝鮮半島を占領し、第2次世界大戦に備えて最も強大な軍事力を同地に結集させた。 日本軍の公式文書では慰安婦女性たちの正式名称は挺身隊となっている。この公文書の存在は加藤紘一官房長官が先週認めたものだ。韓国の歴史家らは、およそ20万人の朝鮮半島出身女性が日本軍の
今回のエントリーではインドネシアを代表する時事週刊誌「テンポ(Tempo)」が1992年に報じた「従軍慰安婦」特集を紹介します。この問題がインドネシアで注目を集めるようになった当初に、テンポ誌がインドネシアの各地方および海外支局の総力を挙げてまとめたものです。テンポ誌独自の取材に基づき、インドネシア人「慰安婦」や慰安所の関係者などの豊富な証言から記事が構成されています。 インドネシアで「従軍慰安婦」に対する関心が高まり始めたのは、日本政府がこの問題において軍部の関与を公的に認めた1992年7月以降のことです(強制性については否定)。そして、日本政府はこの直後、「従軍慰安婦」の中にインドネシア人女性も含まれていた件に関して在ジャカルタ日本国大使館を通じて、インドネシア政府へ謝意を表明しました。こうした日本政府の対応に前後して、インドネシアの国内メディアは「慰安婦」問題の報道を開始。テンポ誌も
高木健一氏が池田信夫氏を告訴したらしいので、安倍晋三氏が流したデマについて指摘しておく - 法華狼の日記の補足として、有名なデマについて指摘しておく。 高木健一弁護士に告訴されたと報告する池田信夫氏のブログエントリで、下記のYOUTUBE映像を紹介していた。「朝まで生テレビ」の録画らしい。 Wikipediaでも似たような記述がされている。 高木健一 - Wikipedia 1993年4月に、高木や村山晃(現京都第一法律事務所所属[5])弁護士ら日弁連調査団がインドネシアを訪問し[6]、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦に対して名乗り出て欲しい」という内容の広告を出し[7]、また日弁連調査団はインドネシア法律扶助協会(LBH)などと共同で元慰安婦の証言を集めはじめた[8]。 名乗り出れば200万円の補償を得ることができると宣伝されたともいわれる[7]。兵補中央協議会会長のタ
表記裁判は「慰安婦」徴集が戦争犯罪として問題になり、関係者が戦犯として裁かれた唯一の事例です。(当時の連合国はヨーロッパ人女性の被害のみを裁き、インドネシアをはじめ他のアジアの女性たちの被害に関しては関心がなかったのです。) 昨年、強制動員真相究明ネットワークが情報公開させ、大量の資料の日本語部分のテキスト化を真相究明ネット会員の須磨明さんが行ってくださり、読みやすくなりました。(*1) この資料は、被害者、関係者(証人)、加害者の尋問調書で構成され、「事件(犯罪)」の全貌がわかります。 インドネシアでのオランダ人女性の被害という特殊性がありながらも、慰安所制度の普遍的な本質がみえてきます。しかも戦後間もない時期の証言なので、記憶も確かで生々しく迫ってきます。 被告・加害者の証言や反論も「強制ではなかった」「合意であった」「知らなかった」と今に変わらぬ理屈で自らの犯罪に対する「処罰」から逃
バタビア裁判における慰安所関係事件資料で公開されている「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」より。 1 44 年2,3 月頃、「ハルマヘラ」キャンプニ行キタル時、一名ノ老婦人ヨリ娘ガ数週間前、強制的ニ「キャンプ」カラ連レ出サレ、酒場ニテ仕事ヲサセラレアリトテ、非常ニ心痛ノ様ヲ打明ケラレ、援助ヲ求メラレタルモ、当時、抑留所ハ未ダ軍ノ手ニ非ズ、近ク軍ノ手ニ委譲セラレタナラバ、出来得ル限リノ調査、援助ヲ約シタリ。 2 然シ、当時「スマラン」ニテハ、之等抑留所ヨリノ婦女ヲ以テ市内ニ慰安所ガ開設セラレアリシコトヲ、余ハ他日本人ヨリ聞キアリタルヲ以テ、本件ヲ吉田大尉、長谷川中尉ト協議ノ結果、吉田大尉ハ電話ニテ「バタビヤ」本所ニ報告スルト共ニ、之ガ閉鎖方ニ努力セリ。 而ルニ之等慰安所ハ司令部ノ許可ヲ以テ開設セラレアリシヲ以テ、我々ノ努力モ本所ヲ通ジ行フノミニテ、意ノ如ク進捗セザリシガ、丁度当時東
界隈での議論で気になるところがあるので資料を抜粋しておく。 バタビア裁判における慰安所関係事件資料で公開されている「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」からバタビア裁判で死刑判決を受けた岡田少佐と幹部候補生隊隊長の能崎少将の判決文を一部抜粋した。 岡田少佐の判決文より一部抜粋 被告は婦女子の選択は、州庁職員に全然委せありたるを以て、何等の干渉をも行はずと主張あり。更に、被告は、司令部の許可は婦女は自由意志にて、抑留所を離れ、又、自由意志にて慰安所に務むべきことの条件づきなりしことを知りありたり。而も斯かる事実は、婦女子が選択の目的を充分に知らされ、同意書に署名をする前に、その結果に関し充分考慮する機会を与へられざるべからざりしことを意味するものなり。又この自由意志に基くべしとの要求は、当然、同意書の署名に際し、充分なる監督を行ふ将校は、之等婦人が事実充分にその内容を知らされ、自由意
はてなブックマーク - 第一次安倍内閣の2007年の閣議決定の欺瞞と嘘 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで次のようなやり取りをした。 yasugoro_2012 ↓スマラン事件が「部隊の命令違反」というのは誤解。現地の十六軍司令部は黙認していた。スマラン事件も慰安所「制度」の存在があったからこそ起こった事件といえる。 stand_up1973 従軍慰安婦 歴史 軍当局の命令下に行われた事象と、部隊の命令違反とを区別しないのですかね/司令部の黙認と軍当局の命令とは同じ?スマラン慰安所閉鎖の経緯は諸説ある。オランダ軍事法廷だけを信じるなら話は終わりですが/喜び? このやり取りをきっかけにid:stand_up1973氏と議論を交わしたが、メタブックマークを積み上げた結果自説の理路が分かり辛くなったこともあるので整理してみたい。 事件の概要 まずは、スマラン事件の概要を提示する。92年当時に朝日
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く