私立瓊浦高等学校では投手として1980年夏の第62回全国選手権大会に出場。1回戦で東北高等学校の中条善伸と投げ合うが0-4で完封負けを喫する。 高校卒業後は、社会人野球の三菱重工長崎に進み、内野手へ転向。1981年から都市対抗に3回出場、1985年、1986年の大会ではNTT九州に補強され、チャンスメーカーとして活躍した。国際大会では1985年の第13回アジア野球選手権大会、第7回インターコンチネンタルカップの日本代表に選出される。 1985年度ドラフト会議にて阪急ブレーブスから4位指名を受け、翌年のシーズン後に入団。 1987年(1年目)より一軍に定着。外野守備の名手として知られ、外野だけでなく三塁を守ることもあった(三塁手のレギュラーである松永浩美が離脱した時はスタメンで起用された)。 1989年にゴールデングラブ賞を受賞。同年は規定打席不足ながら打率.302を記録するなど、打撃でも活