天正元年(1573)に、長宗我部元親の家臣であった久武親信が佐川一帯を与えられ、それまでの一帯の拠点であった松尾城の水不足を嫌い、新たに築城したという。 佐川一帯は、南北朝時代初期には佐河四郎左衛門入道が支配していたと見られ、四郎左衛門入道が、今の高知しろの位置にあった大高坂城での攻防戦に、南朝方として参加していることが軍忠状に見える。 その後、土佐の南朝方勢力が一掃されたため、佐河氏は没落したのか、その姿が見えなくなり、戦国時代には、かつて蓮池城主で土佐七雄のひとつだった大平氏の家臣中村信義が、三野郷と共に支配したという。 土佐中央部を制していた本山氏や、土佐東部を固めていた安芸氏を相次いで降した長宗我部元親の勢力が、元亀元年(1570)頃に高岡郡北部へ及ぶと、信義は周辺豪族と共に元親に臣従した。そして、元親に重用されていた前述の親信が信義の娘を娶り、婚姻関係を結んだようだ。親信に佐川郷