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  • 佐川城 - Mottyの旅日記 Archive

    天正元年(1573)に、長宗我部元親の家臣であった久武親信が佐川一帯を与えられ、それまでの一帯の拠点であった松尾城の水不足を嫌い、新たに築城したという。 佐川一帯は、南北朝時代初期には佐河四郎左衛門入道が支配していたと見られ、四郎左衛門入道が、今の高知しろの位置にあった大高坂城での攻防戦に、南朝方として参加していることが軍忠状に見える。 その後、土佐の南朝方勢力が一掃されたため、佐河氏は没落したのか、その姿が見えなくなり、戦国時代には、かつて蓮池城主で土佐七雄のひとつだった大平氏の家臣中村信義が、三野郷と共に支配したという。 土佐中央部を制していた山氏や、土佐東部を固めていた安芸氏を相次いで降した長宗我部元親の勢力が、元亀元年(1570)頃に高岡郡北部へ及ぶと、信義は周辺豪族と共に元親に臣従した。そして、元親に重用されていた前述の親信が信義の娘を娶り、婚姻関係を結んだようだ。親信に佐川郷

    佐川城 - Mottyの旅日記 Archive
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    NEGORO 2024/12/31
  • 根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下) - 根来戦記の世界

    平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿弥陀堂(無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したという。これが浄土思想的には、理想の死に方

    根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下) - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2024/04/19
    仏教についてまともに調べ始めたのは最近ですが、思想史は面白いですね。何分奥が深いので、間違えていないかヒヤヒヤしながらUPしています。
  • 空白の150年を求めて~『日本書紀』4、5世紀の実年代は? - 鄙乃里

    『日書紀』の年代延長と4,5世紀の年代 『日書紀』の古代天皇の年代が允恭天皇の時代あたりから過去へ大きく延長されていることは了解されるが、それがどのような形で、どのように処理されているのか細かく検証していくことは、けっこう骨の折れる作業でもある。 神功皇后摂政から始まる4世紀の年代についても、干支2巡分が繰り上げられているとの指摘があり、記紀の内容や他の情報を総合的に検討してみると事実のようである。 それなら『日書紀』で201年から始まっている神功皇后摂政開始年は当然、321年からの期間に改められるべきだろう。 ただ、それでも『日書紀』が神功摂政開始年を201年としている以上は、その延長された120年分が以後においてどのように配分され、どのような形で埋め合わせされているのか、その過程をよく観察してみることは、古代史研究の上でも、それなりに有意義なことではないだろうか。 『日書紀』

    空白の150年を求めて~『日本書紀』4、5世紀の実年代は? - 鄙乃里
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    NEGORO 2023/11/02
    実に興味深いです
  • 戦国時代の京都について~その① 都市計画に基づいて設計されたが、その通りには発展しなかった平安京 - 根来戦記の世界

    新シリーズである――実はブログを開設した時からこの記事は用意していたのだが、根来衆関連のシリーズがひと段落ついたので、ようやく紹介できる運びとなった。「京の印地打ち」という小説を書く際に、戦国時代の京について色々調べたのだが、このシリーズではその際に得た知識を紹介してみようと思う。 まずは京の成り立ちについて。 平安期――桓武天皇の御代に、長岡京に代わる新しい都として「平安京」の建設が始まった。794年のことである。きちんとした都市計画に基づいて設計された都市で、モデルはお隣中国にあった大国、唐の首都・長安である。これを模して造られたまではよかったのだが、当時の日の国力には大きすぎた。長安のちょうど4分の1サイズだったのだが、それでも広すぎて持て余してしまったのだ。 建設直後、というよりもその最中から既に、みやこの西半分の右京地域は水はけの悪さもあって、人が集まらなかった。また南北にも長

    戦国時代の京都について~その① 都市計画に基づいて設計されたが、その通りには発展しなかった平安京 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/04/15
    平安京の実態。どのように発展していったか。当初の都市計画通りにはいかなかった。当時の日本の実情には合わなかったのである。
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑫ 織田家の場合・信長の革新性とその中央集権度 - 根来戦記の世界

    シリーズの最後を飾るのは、みんな大好き織田信長である。彼の革新性については古くから定評があるのだが、最近ではそれを否定する方向で研究が進んでいるようだ。確かにこれまでの信長像は、「中世の破壊者」だとか「革命的な天才児」だとか、些か持ち上げすぎであった感は否めない。 最近の研究ではっきりと否定されているのは、まずは「楽市楽座の発明」。信長もやったのは間違いないが、既にその18年前の1549年に六角氏が「石寺新市」に対して楽市楽座令を出している。同じ文脈で語られるのが「座の否定」。これもかつて有名であったが、そこまで座を否定していなかったことも明らかになっている。実際、日一の商業都市であった京であるが、信長が征服した後も多くの座は長く続けられていたことが確認されている。 狭義を呈されて最も論議を呼んでいるのが、「信長は、当に天下を指向していたのか」という問題である。彼が「天下布武」という言

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑫ 織田家の場合・信長の革新性とその中央集権度 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/04/13
    信長体制下における、統治構造について。その革新性と配下に対する支配力とは。
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑩ 北条家の場合・その堅実かつ緻密な領域支配 - 根来戦記の世界

    さて氏綱であるが、彼は有名な「虎の印判状」を制定している。この虎の印判状がなければ、郡代・代官は支配下の郷村に公事・夫役の徴発などの命令を下すことができなかった。これまでローカル勢力に一任されていたこうした行為が、以後は伊勢氏の同意なしには、勝手にできなくなったことを意味する。つまりローカル勢力は、中間搾取の入り口を閉ざされてしまったのだ。 次の氏康の代になってから、こうした動きは更に進む。領国内の郷村に対してこれまで地元勢力から取られていた雑多な公事(諸点役)を廃止する代わりに、北条家に貫高の6%を納めさせるという制度を導入しているのだ。また郷村がローカル勢力に不当な行為を受けた場合、その訴えを受け付ける目安制度も設けている。中世日の特徴として、権利や上下関係の交錯した関係性が挙げられるのだが、このように国衆らローカル勢力の行動を制肘したことで、リゾーム構造をツリー構造に変化させた、と

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑩ 北条家の場合・その堅実かつ緻密な領域支配 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/04/04
    内政が優れていたことで有名な、戦国大名・北条氏。関東において、北条氏はどのような郷村支配を行っていたのか。また軍事組織はどのようなものだったのだろうか?
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑨ 北条家の場合・「他国の逆徒」ルサンチマンからの脱却 - 根来戦記の世界

    ランキング参加中日歴史 伊勢宗瑞こと、北条早雲の国盗り物語があまりに面白くて、当初の予定よりも記事が長くなってしまった。著者の悪い癖である。このままだと北条家の歴史を追うだけで10記事くらいになってしまうので、細かいところは飛ばしてどんどん話を進めていきたいと思う。 さて・・・遂に扇谷上杉氏を敵に回した伊勢宗瑞。これは北条家のみならず、その後の関東の歴史の方向性を決めてしまうほど、大きな決断であった。以降、北条家は東進し、関東を制覇せんとする道を歩むのである。 だが扇谷上杉氏を敵に回すにあたって、問題がひとつあった。過去の記事で述べたように、関東において地縁も人縁もなかった宗瑞は、坂東武者たちにしてみれば「京から来た、よそ者」である。伊勢家は関東を侵攻する勢力の旗頭としてふさわしい家柄ではなかったし、支配者となる正統性もなかったといえる。 彼個人が代わりに持っていたのは、京との太いパイ

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑨ 北条家の場合・「他国の逆徒」ルサンチマンからの脱却 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    胡散臭いよそ者・伊勢家から、関東の支配者・北条家へ。脱皮を果たしたのは、名君・氏綱であった。
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑧ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(下) - 根来戦記の世界

    堀越公方の座を簒奪した茶々丸だが、彼はクーデターと同時に元服し、実名を名乗ったものと思われている。残念ながらその名が伝わっていないので、後世の人間からは常に幼名で記されてしまう運命にある茶々丸だが、関東管領・山内上杉氏と連携する道を取る。伊豆はかつて山内上杉氏の守護分国であった関係上、同家と所縁の深い国人らが多かったのだ。対する新九郎は扇谷上杉氏と連携する。そして新九郎の伊豆侵攻をきっかけに、小康状態であった両上杉氏の抗争も再燃するのである。 伊豆に侵攻するには、新九郎の手勢だけではとても足らないので、今川氏から兵を借りている。葛山氏を中心とする兵だったようだ(新九郎は後に、この葛山備中守の娘と結婚している)。「今川記」には「両家併せて1000余騎」と記されているが、正確な兵力は分からない。いずれにせよ総大将は新九郎であった。なおこの伊豆侵攻より前に新九郎は出家して、号を「宗瑞」としている

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑧ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(下) - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    新九郎の伊豆侵攻。巷間伝えられているほど、楽に進んだわけではなかった。最新の学説を紹介。
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑦ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(上) - 根来戦記の世界

    京から遠く広大な関東地方は、室町幕府より「鎌倉公方・足利家」、そしてそれを補佐する「関東管領・上杉家」によって統治を委任されていた。そういう意味では関東は「ミニ畿内」であったといえる。 しかし「応仁の乱」に先駆けて、1455年に関東では「享徳の乱」が発生、これを機に戦国時代に突入する。鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂し、関東管領であった山内上杉氏は、分家の扇谷上杉氏と争い始め、更に内部で反乱が起きて合従連衡を繰り返す、という大混乱状態となる。(「応仁の乱」の訳の分からなさも大概だが、関東におけるこの「享徳の乱」も、相当なグダグダぶりである。)そんな魑魅魍魎渦巻く関東の地にやってきたのが、伊勢新九郎盛時こと北条早雲である。彼が伊豆に討ち入ったのは、1493年4月のことであった。 この伊勢新九郎盛時――新九郎は呼び名であって、来明記すべき名は盛時なのだが、どうもしっくりこないので、以降この

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑦ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(上) - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    関東の覇者・北条家。その祖である北条早雲こと、伊勢新九郎。彼はどのようにして関東に勢力を築いたのか?
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑥ 毛利氏の場合(下)・その緩やかな支配構造 - 根来戦記の世界

    ローカルな独立勢力である、いわゆる「国衆」たち。その国にある守護や守護代などの強大な存在、もしくは国衆の中から一頭抜きんでた存在などが他を圧しはじめると、その大名の拠地周辺の国衆たちは、次第にその大名の譜代家臣化してくる。 毛利氏でいうと、国司氏、児玉氏などがそうであり、早くから譜代化している。だが吉田荘周辺はともかく、安芸国内であっても少し離れた場所にいる国衆たちは、1557年時点においても、まだ譜代化していなかったのは、前記事で説明した通り。そういう意味では、1565年に出雲に攻め入れられた際に、多くの国衆に裏切られた尼子義久と「中央集権度」という点では、大きな差はなかったといえる。では何が違っていたのだろうか。 毛利を支えた両川といえば、元春率いる吉川家、そして隆景率いる小早川家である。その両川の片翼である小早川家において、面白い事例が見られる。毛利家から小早川家に送り込まれた家臣

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑥ 毛利氏の場合(下)・その緩やかな支配構造 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    毛利家の独特な「家風」とは、どんなものなのか、そしてどこから来たのか?
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑤ 毛利氏の場合(上)・国人から戦国大名へ 一代で成りあがった男 - 根来戦記の世界

    滅ぶときは、あっけなかった尼子氏。ではその尼子氏を滅ぼした、毛利氏の組織はどのような体制だったのだろうか。 いち国人から、一代で成りあがった下剋上の典型ともいえる毛利元就。そういう意味では、因習やしがらみといったものに一切縛られなかった彼は自由に行動でき、その類い稀なるカリスマ性も相まって、己の元に絶大な権力を集めることに成功したのであった――と言いたいところであるが、そんなことは全くなかったのである。 安芸の国の特質として、国人衆らの一揆的結合が強かったことが挙げられる。これは遡ること1404年、安芸守護に補任された山名満氏が安芸の国衆に対して、自領根拠となる文書の提出を命じた騒動に端を発する。この頃までには安芸の国衆たちは、自領の多くを自力で開発して生産性をあげていたので、それを横取り(と国衆たちは捉えた)するような無体な動きを、承服するわけには絶対にいかなかったのだ。彼らは連合体であ

    日本中世の構造と戦国大名たち~その⑤ 毛利氏の場合(上)・国人から戦国大名へ 一代で成りあがった男 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    中国地方の覇者・毛利元就。快進撃を続けた毛利家は、どのような体質だったのか?
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その④ 尼子氏の場合(下)・進まなかった中央集権化 - 根来戦記の世界

    中央集権化を進めた尼子晴久。彼の改革はある程度は進んだのだが、戦国大名としての尼子家は、次の義久の代に一度滅んでしまうのだ。尼子家が滅んだ原因はどこにあったのだろうか? まず晴久がそこまで長生きできなかったのが、大きかった。晴久は1561年12月、47歳の時に急死してしまうのだ。次の当主・義久は祖父や父に比べると――いや比べなくても、遥かに凡庸な男であった。そして前記事の最後に示唆したように、隣には飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利元就がいたのだ。代替わりの際の隙に乗じ、元就がすかさず動く。 元就は以前より、石見銀山を喉から手が出るほど欲していたのだが、晴久在命時には何度攻勢をかけても、これを奪うことはできなかったのだ。しかし義久を組み易し、とみた元就は、まずは石見戦線において和議を結ぶ形で、尼子家の影響力を削ぐことに成功する。この和議に応じた義久は、結果的に尼子側にいる石見の国衆らを見捨てた形とな

    日本中世の構造と戦国大名たち~その④ 尼子氏の場合(下)・進まなかった中央集権化 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    全盛期からわずか25年で、尼子家は滅びてしまう。滅亡の要因となったのは何か?
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その③ 尼子氏の場合(上)・構造改革に悪戦苦闘した晴久 - 根来戦記の世界

    前記事で紹介したように、「加地子得分」を代表とする錯綜した権利関係を元に構成された、これまた錯綜した「リゾーム構造」を持つ日の中世社会。こうした社会の中から、富と武力の蓄積に成功し、権力を持つ者が各地で台頭してくる。後に戦国大名となる者たちである。 土着の開発領主などでいうと、国人層がそれである。彼らはローカル色の強い地頭職などから力をつけてきた在郷武士で、その代表的な例に安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏などがある。また在京していた不在地主である守護から、その地の経営を任されていた守護代なども力を持つようになる。尾張織田氏、出雲尼子氏などがそうである。守護からそのまま、戦国大名に華麗なる転身を遂げた者もいる。いわゆる名門である、甲斐武田氏や駿河今川氏などがこれにあたる。変わった例では、在京していた公家でありながら敢えて京から地方に下向し、土着勢力として生き抜こうとした土佐一条氏などもいる。

    日本中世の構造と戦国大名たち~その③ 尼子氏の場合(上)・構造改革に悪戦苦闘した晴久 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    戦国初期に名を馳せた、尼子経久。彼はどのようにして尼子家を大きくしたのか。
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その② 中世社会のリゾーム構造を支えた「加地子得分」とは - 根来戦記の世界

    古代日の国家体制は、中央集権的な性格を持っていた。それが崩れ始め、地方分権の時代が始まる。それがリゾーム構造を有する、日の中世なのである。それにしても何故、日の中世はこんなにも複雑な社会構造になってしまったのだろうか。 これには複合的な理由があり、歴史学者たちが昔から喧々諤々論じている問題でもある。筆者レベルの学識ではとても追いきれないので、ここでは深くは立ち入らないことにするが、ただひとつだけ、リゾーム構造を象徴する例として「加地子得分」を紹介してみようと思う。 加地子得分とは何か。実は過去の記事で、この言葉は散発的に出てきてはいる。 中世以前の日社会を支えた主な体制は「荘園公領制」である。平安前期辺りから、国(中央)からの収奪に抵抗するために、地元の開発領主たちが開発した土地を「荘園」として、国司など中央のお偉いさんたちに寄進することが流行する。寄進と言う形で中央にいる実力者の

    日本中世の構造と戦国大名たち~その② 中世社会のリゾーム構造を支えた「加地子得分」とは - 根来戦記の世界
    NEGORO
    NEGORO 2023/03/26
    「加地子得分」とは?皆、意外に知らないけれど、とても重要。
  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その① 中世的リゾーム構造 vs 近世的ツリー構造 - 根来戦記の世界

    ※このシリーズを読む前に、下記のシリーズに目を通すのをお勧めします。 なぜ根来寺は秀吉に負けたのだろうか?何とかして、体制を維持したまま生き延びる道はなかったのだろうか?このシリーズ番外編では、日中世社会が持つ、独特の社会構造について考察してみたいと思う。 まず根来寺滅亡について、学侶僧らはどう考えていたのだろうか?根来寺に日誉という学侶僧がいた。20歳戦後で根来寺に入り、そこで修行を積んでいる。根来滅亡直前に高野山に避難し、命永らえた後は京都の智積院に行き、最終的には能化三世となった傑物である。中世根来寺滅亡後、新義真言宗の中興の祖とも称えられた、極めて学識のある人物であった。 彼は晩年に「根来破滅因縁」という書物を記している。その書物の中で彼は、根来寺の破滅の因は寺自体にあったと言い切っている。二つの因により院坊堂舎が焼かれ、一山離散という破局を招いたのだ、と説いているのだ。この彼が

    日本中世の構造と戦国大名たち~その① 中世的リゾーム構造 vs 近世的ツリー構造 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    リゾームとツリー構造の違い。中世の日本の社会構造は、典型的なリゾーム構造であった。
  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後 - 根来戦記の世界

    根来寺は炎に焼き尽くされた。太田城も陥落し、雑賀惣国も滅亡した。 根来寺の近くには粉河寺がある。根来ほど規模は大きくなかったが、同じように武装した僧兵たちによって運営されていた寺社勢力のひとつであった。この粉河寺も、根来寺が炎上したのとほぼ同じタイミングで秀吉に侵略され、同じように炎上している。 真言の総山である高野山はどうなったか?根来寺と粉河寺が炎上したのが3月23日。高野山へ秀吉の使者が来たのが4月10日のことであった。「降伏しなければ、両寺と同じように焼き尽くす」という脅しに抵抗できるわけもなく、秀吉お気に入りの僧侶、木応其を間に立て高野山は降伏した。 こうしてルイス・フロイスが記したところの「紀伊における、大いなる宗教的共和国」の数々は全て鎮圧されてしまった。これで紀泉における抵抗は全て終わったのである――と思いきや、どっこい紀州の国衆は実にしぶといのであった。粘り強く抵抗を

    秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後 - 根来戦記の世界
    NEGORO
    NEGORO 2023/03/26
    その後の紀州。かつて名を馳せた勇者たち、それぞれの晩年。
  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり - 根来戦記の世界

    1585年4月5日前後に堤防が完成、早速紀ノ川の支流・宮井川(大門川上流をこう呼ぶ)の水を引き入れ始める。秀吉側にとって都合のいいことに、堤完成後にちょうど雨が降り始めたこともあって、あっという間に一面の満水となったらしい。その様は大海に浮かぶ小舟のようであった、とある。別の記録には、堤防の内側にあった民家には浮いて水面を漂うものもあった、とある。 前記事でも触れたが、太田城の東側には南北に走る「横堤」という堤防があった。太田側の記録である「根来焼討太田責細記」には「この横堤は秀吉側の水攻めに備えて築いたもの」という旨の記述があるが、囲まれている最中に外に出て工事などできるわけもなく、やはり以前からあった治水目的のものだったのだろう。いずれにせよこの横堤のおかげで、城そのものは浸水からはしばし持ち堪えたようだ。 しかし嵩を増す一方の水圧に耐え切れず、8日前後、遂にこの横堤が切れる。どっと押

    秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり - 根来戦記の世界
    NEGORO
    NEGORO 2023/03/26
    太田城攻防戦。そして中世の終わりについて。
  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防 - 根来戦記の世界

    さてこの太田城だが、現在の和歌山駅のすぐ西側にあった。城内と推定される場所からは、日用品として使われた土器などが出土しており、生活の場であったと考えられている。古くからある環濠集落から、城に発展した城市だったのだろう。瓦なども出土していることから、城内には寺院なども建っていたと思われる。フロイスの報告にも「この城郭は、まるでひとつの町のようであり~云々」という、それを裏付ける記述がある。 宮郷に秀吉軍が入ってきたのが3月23日で、前記事の戦闘が行われたのが25日あたりのようだ。戦闘の後、この太田城に対して秀吉は水攻めを行うことを決定するのだが、築堤作業開始が3月28日以降であると推定されている。その後、突貫工事によって4月5日には堤が完成したらしい。「立案→計画→工事→完成」まで、なんと約10日間(!)という驚異的な短期間である。 宇民正氏による論文「『太田城水攻め』の土木技術面からの検討

    秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    太田城の水攻めするため、長大な堤防を築く秀吉。どうやって築いたのか?
  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑤ 自壊する惣国 - 根来戦記の世界

    根来寺を侵略した同じ日、1585年3月23日には秀吉軍の先手が雑賀にも入っている。翌24日には、秀吉隊も紀ノ川の右岸を進んで、土橋氏の拠地である雑賀庄の粟村を占領した。居館を守るべき雑賀の者たちは、前日の夜にことごとく逃げ去ってしまって、何の抵抗もなかったらしい。 実は秀吉軍の侵攻直前に、雑賀衆の間で深刻な内部抗争が起きていたのである。前日の22日に「雑賀の岡の衆が湊衆に鉄砲を撃ちかけ攻めた」という旨の記述が宇野主水の「貝塚御座所日記」にある。日記には続けて「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」とある。どうやら岡の衆は、以前より秀吉側にある程度内通していたらしく、前線崩壊の報を聞いて旗幟を鮮明にしたものと思われる。 土壇場で裏切ったのは、岡の衆だけではなかったようだ。こうした内紛は同時多発的に発生したらしく、同日記には「在々所々にて、それぞれに内輪打破れて、右の如し」ともある。い

    秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑤ 自壊する惣国 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    天下人の軍隊を前に、内紛を起こす雑賀。だが残った抵抗勢力は結集して、城にこもる。その名も太田城。
  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上 - 根来戦記の世界

    近木川防衛ラインを、あっけなく突破されてしまった紀泉連合。そのまま南に軍を進めた秀吉軍は、23日には山を超えて根来寺に入った。風吹峠と桃坂峠、2つの峠を同時に越えて北から境内に侵入したと思われる。 この秀吉による根来寺侵攻の詳細を、隣の雑賀太田党の目線から記した、「根来焼討太田責細記」という記録がある。江戸前期に書かれたもので、これには秀吉軍と根来行人らによる、根来寺を舞台とした激しい戦いの記録が記されている。少し長くなるが、要旨を見てみよう―― 秀吉軍に対するは、泉識坊をはじめ、雲海坊・範如坊・蓮達坊、そして杉乃坊といった面々。これら荒法師ら総勢500騎を率いるは、津田監物こと杉乃坊算長であった。(中略)攻めてきた秀吉軍に向かい、津田監物は100騎を率いて突撃する。敵陣が崩れたので、これを二十町あまりも追い立てるが、その隙に別動隊が門前に押し寄せ、鬨の声をあげる。 城門には児童や老僧しか

    秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上 - 根来戦記の世界
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    NEGORO 2023/03/26
    根来炎上。中世根来寺は、一晩であっけなく滅びた。鉄砲術の大家・自由際の最期の意地。