はてなポイントと一緒に気遣いのメッセージをいただいたので(ありがとうございます)とりあえず近況を書いておくと、現在、このブログをはじめ、はてなブックマークや他ブログでのコメントなど、公開の場での発言・発信は一切停止しております。ここしばらくブログを更新しながら、ときどきいただく批判コメントやトラックバック等を参考にあれこれ考えた結果、「別に私が発言する必要なんてないんじゃないか」という結論に達しました。私はもともと「伝えたい」とか「共有したい」という感覚があまりなくって、書きたいことがメモ的に書ければいいので(長文になるのはただの癖)。また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まったく関係ないところに政治的スタンスを持ち出されたり人間的な信用を貶められるような道徳的な批判を何度もなされることにうんざりしたというのもあります。私自身は
土俵の件、補記 - novtan別館言及ありがとうございます。私もその種の「空気読めてない」言及が多いほうかなと思っていたので、参考になりました。 逆に言うと、議論する(したい)人のほうも、常にノイズが絡んでくる可能性を念頭におき、そっち方面対処に振り回されないようにしましょうってことになるかな。正直言って、知らない間に「議論」ということになってたりするから難しいが、双方見極めが必要だ。議論苦手な人は、その話題が「議論」に属するものであることがわかった時点で、何か言いたいことがあってもその話題から手を引く(自分の書いたことに対して何か言われてもそれ以上言及しない。「誤解」も罵倒も甘んじて受ける)のがそのときは損のようでも時間や労力や公益性*1という面で言ったら吉かも。
数年前バスに乗っていたとき、こういうことがあった。私のすぐ後ろの席に男性の二人連れが乗っていた。乗るときにちらっと見たが、一人はかなりオッサンでどうやら出張か何かで福岡に来ている人らしい。もう一人は若くて、おそらくそのオッサンの案内役の地元の人。そのオッサンが連れを相手に何を喋っているかというと「福岡市がいかに田舎か」ということを熱心に説いているのだった。しかもかなり大声で。福岡が田舎である根拠としては、地下鉄の路線が少ない、ということだった(当時は七隈線もなかった)。主要道路の地下に地下鉄が走っておらず路上をバスが走っているなんて田舎だ!というようなことを熱く主張。比較として地下鉄が走っている他都市を出して、福岡のほうが田舎だと強調。でも別に地下鉄愛好家というわけでもなさそうで、ただ福岡は田舎であると言いたいだけのようだった。しかもバスは西○の独占状態だ、それがいかん、みたいなことを大声
以下略。自分も気をつける。・・・・・・・・・と思ったけどちょっとだけ。人間誰しも完全無欠の聖人ではないのだから偏見や差別心は多かれ少なかれあるだろうし、何かの拍子にそれが出てしまうこともあると思う。売り言葉に買い言葉、感情的になって言わなくてもいいことを言ってしまうこともあるだろう。でもだからって、その偏見を正当化し続けるのはどうかと思う。その揺るぎのない確信っていったいどこから来てるんだ? もちろんそれが「差別」かどうか傍から見れば微妙なことというのはあるし、そんなつもりで言ったんじゃないのに「お前は差別している」などと言われて気持ちのいい人はいない。やり取りの中で相手だって不愉快なことを言ってる場合もある。それでもそこの言動からうかがわれるのは差別意識・偏見・侮辱だろとしか言えないようなことはある(少なくとも私の価値観においてはある)。厳密に学問的に言って差別とはどういうことかってのと
・他人が愚痴を言ったり弱音を吐いたりすることに対して「甘えるな」「大変なのはお前だけじゃない」「お前などまだ恵まれている」 他人のみっともなさや至らなさに対してむやみに厳しい。自分にも厳しいのかもしれないが、自分にだけにしといてほしい。・「自分(もしくは自分の知っている人)はこうやってきた」→「だから他の人だってできるはずだ・やるべきだ」→「できてない・やらない人は甘えている」・「他人や社会の批判ではなく自分が変わるべき」。たしかに何でも外部のせいにばかりしているのはみっともないが、行き過ぎると「嫌なことが起きるのはあなたの心がけが悪いせい」に限りなく近づいてしまう。・(ひとの生き方・選択について)「(××が基本だけど)○○もあっていいと思う」…これは私もよく使うかも(汗)。そもそも人の生き方なんて誰かが許可するもんじゃない。・「自分は気にならない」→「問題は無い」→「気にしている人はおか
障害者であることを言い訳に使う人について前のほうのエントリで何度か書いたが、だからといって障碍(もしくは広い意味でのハンデ)があることを理由に配慮を求めてはいけないということではない。障碍に限らずその他のマイナーな属性全般について言えることなんだけど、状況を改善するために自分の事情を話して配慮を求めたり(もちろん言い方は大事)代替案を出したりというのはとがめられることじゃないと思う。例えば皆で食事に行く計画を立てるとき、魚介類にアレルギーのある人(もしくは単に「苦手」でも)があらかじめ自分は魚介類がダメだから魚介類メインじゃないところにしてもらえるとありがたい(もしくは代わりのメニューを出してもらえるところ)と配慮を頼んでおくのは失礼なことでもずうずうしいことでもなんでもない(ついでによさげなお店の紹介があったりするとなおよい)。むしろ何も言わないでいてお店で食事が出てきてから「実は食べら
山は越えたそうだが - 北沢かえるの働けば自由になる日記まずごめんなさいって、それからだよ - S嬢 はてなkaerudayoさんのエントリ読んで思い出したことがある。ある日(かなり前)仕事をしていたら、利用者から「子どもが雑誌コーナーで走り回っている。注意するべきだ」と苦情があった。で、見に行くと、たしかに幼児がひとりばたばたとせわしなく走り回っている。まあこれは他の人たちはうっとおしいだろうと思い、その子のところにいって「ボク(男の子だった)、ちょっと走るのやめようねー」という感じで話しかけたら、その近くに座って雑誌読んでた女の人が「この子はADHDなんです。じっとしてられないんです。出て行けって言うなら出て行きますけどっ」と憤然として言う。ああーADHDなのかー。言われて見れば確かに、走りたくて走ってるというよりエンジンついてて走らずにはいられないって感じだ。それは悪いことをした、と
たとえば何かニュースになるような事件が起きたとき、渦中の人物がなぜそのようなことをしたのかについてあーだこーだ考察したり、その人の人間性について思うところを語ったりするのは、ある意味とても失礼なことだ。ニュースになるような事件じゃなくても、他人に対して「こういう人だろう」「こういう動機でやってるのだろう」「こういう事情があるのかも」と勝手にあれこれ考えるのは失礼である。それはたしかにそう思う。私はどっちかというと、難しいことよりそういう部分に目が行ってあれこれ考えるほうなので、私が自分にとって「自然」(とめんどくさいのでとりあえず言っとく)なものの見方をしてると、それだけで加害的になるのだなあと考えざるをえない。なんか私が「こういうのが自分にとって楽しいな」「やりやすいな」と感じることを心のままに(笑)実践していると必ずそれは他人を土足で踏みにじるようなもの(もしくは他人を土足で踏みにじる
"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうかその痴漢した人に憤るのは当然。被害にあったあなたに対して「障害者だから許してやれ」的なことを言った周囲の大人の対し方は問題。そして彼が何度もその種のことをして苦情が出ているにもかかわらず、クラスを変える程度の対処しかしていないスイミングスクールや加害者の親にも責任はある。そいつが障害者だからというより、痴漢被害が起きているのにそれに対してきちんと対応しないことに問題がある。加害者が未成年だったとするならなおのことだ。犯罪行為や犯罪につながりかねない問題行為があれば、相手が理解してやめることができるように周囲の大人が指導しなければならない。それは大人として保護者として当然の義務。現実にはできてないことも多くて、エントリのようなことが起きてしまうのだろうが、改善されねばならないことだ。そういう体験に憤るのは当然のことだ。おおいに怒るべきだ。でもそ
■せんせい、○○くんもやってます! 痛いニュース(ノ∀`):民主・菅代表代行も“不適切発言”!「愛知も東京も経済生産性はいいが、子供を生む生産性は低い」 「愛知も東京も経済がいい。生産性が高いといわれるが、ある生産性は、一、二を争うぐらい低い。子どもを産む生産性が最も低い」というようなことを言ったらしい。愛知県がわざわざ出てくるのは名古屋での講演だからだろう。 だからさ、けっきょく柳沢大臣だけじゃなくて批判する側も、少子化問題の解決には出生数を上げる、産んでもらうという発想しかないから、なにかっちゅーと経済の言葉や統計の数字などで「産むこと」を語ることになってしまい、そもそも人間を数値で語るなモノに例えるな手段扱いするな主義の人たちから延々と突っ込まれることになってしまう。 それかその反動でむやみに美化する。それを嫌う人もいる。「子どもを産む崇高な行為」って言い方だって何か言う人は言うだろ
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