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ブックマーク / k-onodera.net (3)

  • 『ゼロ・グラビティ』わたしの肩の上の天使

    あの長回しのアクション・シーンが印象的な『トゥモロー・ワールド』の監督、アルフォンソ・キュアロンの新作ということで、宇宙飛行士が猛スピードで振り回され宇宙空間に投げ出される予告編を、劇場で初めて見たときに、「むむっ、これは・・・」と思わされたというのは、この予告編からカッティングされたアクション・シーンが、ワンカットだけでできていたためで、「まさか今回は、映画全編が長回しのワンカットで構成されているのではないか」という予感を持ったためだ。 だが、編を観るとやはりそんなことはなく、当たり前のようにカットがどんどん割られていくのだったが、そのように誤解させるほどに、「キュアロン=長回しの作家」という印象は強い。 『ゼロ・グラビティ』のカットも、やはり比較的長尺が多い。なかでも、ISS(国際宇宙ステーション)が、飛び交う破片に巻き込まれぐしゃぐしゃになっていく様を、途切れることなく、縦横無尽に

    『ゼロ・グラビティ』わたしの肩の上の天使
  • 『かぐや姫の物語』アニメに反逆する、おんな【レビュー下巻】

    【レビュー上巻】『かぐや姫の物語』「生命を吹き込む魔法」では、作品の表現方法における革新性について述べた。 稿では、主にシナリオ面において、「竹取物語」という、日文学史上の偉大なテキストに対し、高畑監督らがどのような意匠を加え脚色したのか、『かぐや姫の物語』の意図と哲学を探ってみたい。 「竹取物語」は、平安時代初期に書かれたものとされるが、詳しい成立年代も、作者も不明である。 内容の描写が非常に簡潔であることは前にも述べたが、それ故に、「何故かぐや姫が地上に降りたのか」、「何故月に帰らねばならなかったのか」についても謎に包まれている、ミステリアスな作品でもある。 写が確認される室町時代までに改変された可能性もある物語だが、漢文によって書かれた原文はもとより、これ以前のものが現存しないことから、一般にこれを基のテキストとして考えるのが一般的である。だから、高畑監督の『かぐや姫の物語』

    『かぐや姫の物語』アニメに反逆する、おんな【レビュー下巻】
  • 『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-B 捨て去られるポストモダン

    『ジャンゴ 繋がれざる者』の黒人奴隷問題についての取り組みは、「『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-A 奴隷描写は正しいか」で述べたので、今回は「SIDE-B」として、作におけるメタフィジックな面からの作品理解と技術上の取り組みについて述べたい。 作のタイトルと主題歌、主人公の名前は、マカロニ・ウェスタンの代表的監督のひとりであるセルジオ・コルブッチの『続・荒野の用心棒』(“Django”)からきている。 「続」なんて言ってるので、邦題ではセルジオ・レオーネ監督による『荒野の用心棒』の続編のように思ってしまうが、実際は設定が少し似ているだけで、『荒野の用心棒』とは何も関係が無い。そしてこの”Django”自体も、異なった俳優や異なった監督で、『皆殺しのジャンゴ』、『血斗のジャンゴ』と、正統な流れがよく分からないまま、乱暴にタイトルがつけられていた。 アメリカでの公開時にもやはり同じ状

    『ジャンゴ 繋がれざる者』 SIDE-B 捨て去られるポストモダン
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