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ブックマーク / mercamun.exblog.jp (6)

  • ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 | 社会学玄論

    ニセ科学批判批判に対して、ニセ科学批判者を一般化して論じるなという方がよくいるが、これはニセ科学批判にも色々なかたちがあるということを前提にしての反論である。 しかし、実際はどうだろうか? 確かに、多様なニセ科学批判が乱立している状況ならそうもいえるだろう。残念ながら現実は全く違っているのである。 ニセ科学批判ほど、画一化した思想はない。もともと、ニセ科学批判という創造的な概念を開発したのは、菊池教授である。菊池教授こそが疑似科学批判という概念を一歩前進させ、ニセ科学批判という新しいジャンルを生み出したのである。 そして、多くのブロガーたちを魅了し、自己の思想に賛同する信者をつくってきたのである。確かにネットにおける新型の社会運動として評価できる側面もあるのだが、宗教組織と似た特質が見受けられ、その思想と方法はあまりにも画一的である。 まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学

    ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 | 社会学玄論
    Nean
    Nean 2010/02/11
    このヒト、絶対顕名では活動出きないよなぁ。こんな底の浅い話ばかり書いてちゃぁ。
  • 反社会学講座による読者コントロール | 社会学玄論

    反社会学講座による読者コントロールのトリックを暴きたい。 ・自己の提示した統計の解釈イコール客観的的事実だと思わせ、常識・俗説を批判する。 しかし、社会調査法の専門家から見れば、粗雑で間違っている。自らは調査はせず、引用だけですましていることから明らかである。仮説を実証するためには、自らが定めた項目で調査する事項も出てくるがそれがない。 最初に統計はこうだと主張し、最初の主張で常識・俗説を批判し、その流れから厳密な社会調査をせずに、自己の主張を通そうとする。最初が正しければ、後も正しいという人間心理における認知不協和の理論を巧みに使用した読者コントロールである。 ・批判からの自己防衛のために、当の社会学者からは批判されないという防波線をはる。批判してくるのは学者崩れであると主張する。 このような予防線をはることにより、社会科学を研究する教授や大学院生が批判すると、自己の値打ちが下がると思

    反社会学講座による読者コントロール | 社会学玄論
    Nean
    Nean 2010/02/04
    具体的な批判のない印象操作だけぢゃん。
  • 科学による客観的事実の独占化 | 社会学玄論

    科学が存在する前から、人は自然に対する知識をもっていたわけであり、科学のみが客観的事実を独占するというのは、おかしな話である。 例えば、河豚には毒があるとか、水を沸かすと蒸発するとか、種をまくことで穀物が生えてくるとか、数え上げれば切がない。また自然に対する知識には、能というものもある。匂いや味で腐ったものを判別することもできる。近代化し科学が誕生する前から、人間は自然に対する客観的事実を知っていたのである。自然に対する客観的事実は科学の専売特許ではないことがわかる。科学的方法でしか客観的事実を得ることができないと考えたり、科学が一番よく客観的事実を見つけ出す方法であると考える人がいたら、それは一種のおごりである。 科学という知識に人間が頼りだしたのは、近代社会に入ってからである。近代社会の仕組みと科学は平行している。社会学的には、科学を論じることは、近代化を論じることと質的に同じであ

    科学による客観的事実の独占化 | 社会学玄論
    Nean
    Nean 2009/01/05
    とことん。
  • クオリアという観察(質/量) | 社会学玄論

    科学者·茂木健一郎が提唱するクオリア論は、微妙な立ち位置にある。ニセ科学批判者系のブロガーからあまりよく思われておらず、ニセ科学や擬似科学のレッテルを張られそうな雰囲気である。 区別の論理から、クオリア論をコード分析すると、実は自然科学ないしは数理科学に対する第二次観察だと言える。つまり、自然科学ないしは数理科学は、(質/量)というメタコードに準拠しており、量をマークして構築された学問であるということである。一方、クオリアは、決して量には還元されない世界の一面を指していることになる。自然科学や数理科学は、クオリア論によって相対化される。質は量に還元されず、量は質に還元されない。 ただし、ここで問題となるのは、クオリア論が実証性、反証性、客観性をもつかどうかである。クオリアは主観的感覚であり、客観化することができない。しかし、そうなると、量の世界は、数式で表現できる客観的世界であるが、質の世

    クオリアという観察(質/量) | 社会学玄論
    Nean
    Nean 2009/01/05
    モギーは提唱者ではないと思いますよ。
  • 科学教の本質 | 社会学玄論

    ニセ科学批判者たちが使用するレトリックの自己矛盾を指摘しておきたい。 ニセ科学批判者たちは、科学的知識は事実そのものである絶対的真理には到達不可能であるが、科学によってそれに近づくことができると主張する。つまり、個々の科学的知識は事実と思われる認識内容であって、永遠に事実そのものには到達できないが、実験と観測を重ねることで事実そのものに限りなく近づいていくことが科学の営みであるというわけである。この論理からすると、かえって科学は、絶対的真理を前提としていることがわかる。もう少し詳しく言うと、科学は、事実そのもの=絶対的真理=対象と認識内容が完全に一致した命題の存在に近づくことを目標とすることで成り立っている。しかし、何を根拠に事実そのものにより近づいていることを判断できるのだろうかという疑問がすぐに湧いてくる。ここで科学そのものがパラドックスに陥ることは、システム論者なら誰でもわかる。それ

    科学教の本質 | 社会学玄論
    Nean
    Nean 2009/01/05
    読解力のないヒトを説得するにはどうしたらいいんだろう? いつまでこんな不勉強を世に晒し続けるおつもりなんだろう?
  • 疑似科学批判が流行る理由 | 社会学玄論

    疑似科学批判が流行る理由は、明らかである。 社会学的に言うと、現代社会のイデオロギーとして科学が機能しているからである。つまり、科学という言葉だけで人々は思考を媒介とせずにそれが真理であると信じるわけである。このような知識社会学的な社会状況を背景に、科学のイデオロギー効果を利用して人々を騙すのが疑似科学である。それは、虎の威を借りた虚偽知識である。アカデミックな当の科学の立場からこのような虚偽知識を批判するのが、疑似科学批判をする論客たちなのである。 しかし、科学を絶対視する点においては、疑似科学もそれを批判する者も同じ観察点にいる。この盲点に自覚的な論客は少ない。多くの疑似科学批判論者は、疑似科学批判の背景には、科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理があることを理解していない。言い換えれば、自己の理論の前提に盲目なのである。学問的には、このままで

    疑似科学批判が流行る理由 | 社会学玄論
    Nean
    Nean 2007/12/20
    社会学は科学ではないということでOK?
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