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ブックマーク / jmiyaza.hatenablog.com (7)

  • 木田元・計見一雄「精神の哲学・肉体の哲学」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    講談社 2010年3月 哲学者の木田元氏に精神科医の計見一雄氏が西洋哲学史について講義を受けるという形の対談形式のである。 計見氏は精神科医だから、当然“精神”の病気をあつかう。心臓病は心臓の病気、肝臓病は肝臓の病気、では精神病は精神の病気といえるか?、というのが計見氏がもつ問題意識である。そうであるなら、精神というのはどこにあるのか? 脳? 精神病というのが脳の病気なのだとしたら、脳の病気をあつかう部門としては脳外科があり、神経内科もあるではないか。 木田氏は反哲学を唱えている。西洋の正統的な哲学が、自然に反する超越的な原理を中心にすえて展開されてきたことに異を唱え、精神から肉体への回帰ということを言っている。 この二人はめざす方向は、だからある程度、一致しているようにみえる。事実、計見氏は木田氏の哲学論に共感するところが多々あり、計見氏が聞き役と疑問の提示役となってこの対談が成立した

    木田元・計見一雄「精神の哲学・肉体の哲学」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • 長尾龍一「争う神々」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    信山社 1998年 羽入辰郎氏の「学問とは何か」を読んで、マックス・ヴェーバーについて以前に読んだなどを思い出すことになった。そんなに多いわけはなく、長部日出雄「二十世紀を見抜いた男 マックス・ヴェーバー物語」(新潮社 2000年)、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」(岩波新書 1997年)、A・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」(みすず書房 1988年)といったものである。長尾氏のこの「争う神々」もその一つである。 「あとがき」に「研究スタイルを「番犬型」と「野良犬型」に分けるとすれば、ウェーバー研究は、忠実な番犬に囲まれて、下手に近づくと噛みつかれて大怪我をする怖れのある、君子の近寄りがたい領域といえよう。しかし、野良犬は、定義上君子ではない」と書いている。言い得て妙である。このは1998年の出版であるから、折原−羽入論争を踏まえて書かれたものではない。折原氏は「番犬型」で、

    長尾龍一「争う神々」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/12/18
    ウェーバー
  • ハイエク「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」in「ハイエク全集 2−7 思想史論集」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    春秋社 2009年7月 この「思想史論集」は偶然書店でみつけた。その中にこの「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」が収載されていた。これを知ったのは、だいぶ前に読んだ渡部昇一氏の「新常識主義のすすめ」(文藝春秋 1979年)の中の「不確実性時代の哲学−デイヴィッド・ヒューム再評価−」によってである。その当時の世界的なヒュームの再評価を紹介したもので、「英国史」の著者として生前にヒュームは有名であったことをそこで知った。そこでは、現代ヒューム研究の白眉としてこの1963年のフライブルク大学での公開講演「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」をあげていた。講演のキーワードとして「構成的主知主義」という言葉が紹介されていた。ヒュームは合理主義を否定したといわれるが、合理主義すべてを否定したのではなく、その中の「構成的主知主義」といういきかたを否定したのだという。この言葉は全集では「設計

    ハイエク「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」in「ハイエク全集 2−7 思想史論集」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/11/20
    経験論はたしかに合理論とは対立するけど、非合理主義や反合理主義ではない
  • 佐伯啓思 三浦雅士「資本主義はニヒリズムか」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    新書館 2009年10月 書は、巻頭の佐伯氏の「金融ニヒリズムと「現代の危機」」という論文、巻末の三浦氏の「ニヒリズムとしての現代芸術」という論文(ともに2009年のもの)をはさんで、佐伯氏と三浦氏の4つの対談を置く構成になっている。4つの対談は最初のものが2009年8月のものであるのを除くと、それ以外は1999年、2001年、2003年となかり以前のものである。三浦氏の巻末の論文はかなり独立性の高いものであると思われたので、以前ここで論じた。対談は基的に佐伯氏が怪気炎をあげて、それを三浦氏が批判する、からかう、あるいはおちょくるというものになっているように思えた。 佐伯氏は保守派の論客ということになっているようであるが、論壇と呼ばれるところでどのような言説を述べようとも、それが現実の政治に影響をあたえるとはまず思えない。そうであるとならば、自分の言説をなにがしかでも実現しようと思えば

    佐伯啓思 三浦雅士「資本主義はニヒリズムか」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/11/17
    「近代の超克」ですね。佐伯が言ってることはちっとも新しくない。三浦については http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20091012/1255310982
  • 鹿島茂 「吉本隆明1968」 (1)反スターリニズム&反=反スターリニズム - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    平凡社新書 2009年5月 吉隆明を「偉いよ、ものすごく偉い」という鹿島氏が、その偉さにピンとこない若いひとたちにむけて「なぜ、われわれ団塊の世代は吉隆明を偉いと思うのか」ということを懇切丁寧に噛んでふくめるように縷々切々と説いたである。当はもっともっと書きたかったのではないかと思うが、新書という制限のため、やむなく筆をおいたというようにもみえる。400ページ以上という新書としては相当に大部のであり、鹿島氏の熱気がむんむんと伝わってくる。 しかし、若いひとたちは読まないのではないかと思う。1968年といえば、40年以上前である。ということは40歳以下のひとたちは生まれていない。生まれる前は「過去」であって自分とは関係ないとはさすがに思わないかもしれないが、書で主として論じられる小林多喜二や芥川竜之介や高村光太郎あるいは四季派の詩人などは完全に過去のひとである(小林多喜二は最近復

    鹿島茂 「吉本隆明1968」 (1)反スターリニズム&反=反スターリニズム - jmiyazaの日記(日々平安録2)
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/06/06
    シリーズもの、1から5まで
  • M・ウェーバー「職業としての学問」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    岩波文庫 1936年 長尾龍一氏の「争う神々」(信山社 1998年)を読んでいたら、やはり「職業としての学問」を読み返さねばわからないのかなと思った。以前読んだのは大学生のころで、何だか随分と顰めつらしい話だな思ったことしか覚えていない。 それでこの尾高邦雄訳の岩波文庫を読んでみたが、さっぱり理解できない。それでインターネットを見ていたら、岡部拓也という方が、自分の翻訳を公開しているのを見つけた。その岡部氏の訳のタイトルが「職業としての科学」である。ウェーバーの原題は、Wissenschaft als Beruf である。Wissenschaft は手許の辞書では、学、学術、学問、科学(特に自然科学)とある。うれしいことに岡部氏のページでは公開されている英訳版(Gerth & Mills 訳)ともリンクしていて、その英語版のタイトルは、Science as a Vocation なのである

    M・ウェーバー「職業としての学問」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
    PledgeCrew
    PledgeCrew 2009/02/11
    ウェーバーという人は「魔人」ですからね。
  • 橋本治「最後の「ああでもなく こうでもなく」 そして、時代は続いて行く−」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    マドラ出版 2008年10月 橋治が「ああでもなく こうでもなく」というとんでもない題名で「広告批評」に連載している時評をまとめたはいままで5冊刊行されているが、6冊目となる書は、その最新刊でありかつ最終巻となる。来年3月までで「広告批評」が休刊になるのだそうで、最後まで時評の連載は続けるが、それをまとめてにするのは今回が最後ということらしい。そのためもあるかと思うが、今までの5冊とは少し肌合いが違うとなっている。なんとなく、しんみりしているというか、素直である。今までのものでは、言っていることは確かにわかるけれど、それで当のところ一体何を主張したいのだ、といいたくなるようなわかりにくさとわまりくどさがあったが、巻では、こう書いたのはこういうことがいいたいからだという自己解説が頻繁にみられる。今まで橋氏のを読んでいて、これをつきつめると「ラッダイト運動」になってしまうので

    橋本治「最後の「ああでもなく こうでもなく」 そして、時代は続いて行く−」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
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