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哲学に関するR2Mのブックマーク (7)

  • ルイ・アルチュセール - Wikipedia

    ルイ・アルチュセール ルイ・ピエール・アルチュセール(Louis Pierre Althusser、1918年10月16日 - 1990年10月22日)は、フランスの哲学者。マルクス主義哲学に関する研究において著名である。 概説[編集] フランス共産党を内部から批判すべく、『マルクスのために』、『資論を読む』を著し、マルクス研究に科学認識論的な視点(認識論的切断や徴候的読解)を導入した。また、論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」において、呼びかけ=審問(en:Interpellation (philosophy))による主体形成の理論を提案した。 高等師範学校(fr:École normale supérieure (rue d'Ulm — Paris))の教員として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、バリバール 、ランシエール、アラン・バディウ、ミシェル・セール、ベルナー

    ルイ・アルチュセール - Wikipedia
  • ヨーロッパの道徳は「容赦ない社会」が生んだ

    みなさま、たいへんおそまきながら、あけましておめでとうございます。 今年のお正月はウィーンで迎えました(そのために12月はこの連載もお休み)。家内がウィーンに小さいアパートを借りていて、そこで年に数度「お茶」を教えているのですが、そこに滞在。会社の休みにペルー、チリ、イースター島に旅行していた息子もブエノスアイレスから合流して、家族で簡素なウィーンのお正月を迎えました。こうして、わが家は、親子3人別々の国にいることが多い「国際別居家族」というわけです。 37年前、「悲壮な決意」で迎えた新年の記憶 大みそかは、わが家からタクシーで10分のところにあるウィーン市街が一望できる高台に登り、そこでカウントダウン。午前零時とともに何千発もの花火が打ち上げられ、ウィーンは光の渦に包まれました。 お正月、家内はドナウ川沿いの仏教寺院でお茶会。私は出席しなかったけれど、朝、荷物を運ぶのを手伝ったとき、ウィ

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    R2M 2019/11/03
  • リチャード・ホフスタッター - Wikipedia

    ニューヨーク州のバッファローでユダヤ系の父とドイツ系の母の間に生まれる。1933年にバッファロー大学に入学し、哲学と歴史を専攻する。この修業時代、バッファローは大恐慌の重苦しい影響下にあり、その環境は若きホフスタッターの知的関心に寄与する。大学では青年共産主義同盟(The Young Communist League )に入り、1936年に結婚することになる左翼の女子学生フェリス・スウェイドスに出会う。コロンビア大学で修士、博士号を取得。 1938年に「熱狂ではなく、義務感」から、アメリカ共産党に入党。1939年のソビエト社会主義共和国連邦による大ドイツ国との協定により、ホフスタッターはアメリカ共産党だけではなく、ソ連・マルクス主義全般に対する共産主義の幻滅を経験した。しかし同時に資主義に対する嫌悪は、生涯に渡って保ち続けられる。 ブルックリン大学・ニューヨーク市大学・メアリーランド大学

  • リゾーム - Wikipedia

    リゾームとは、rhizome (希: ρίζωμα 、ラテン文字転写:rhízōma)の音写語であり、「地下茎」の一種。「根茎(こんけい)」と訳す人もいる。 日では主として、ドゥルーズおよびガタリの共著『千のプラトー』の中の登場する比喩的用語あるいは哲学用語として知られている。両者は、伝統的に西洋の形而上学はある絶対的な一つのものから展開していくツリーのモデルをとってきたと解釈し、それに対抗して、中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するノマド的なリゾームのモデルを提唱。狙いは、体系を作り上げそれに組みこまれないものを排除してきた西洋哲学に反抗し、リゾーム(地下茎、根茎)をモデルに発想の転換をさせるところにある。 西洋近代の哲学者デカルトは、その著書である『哲学原理』の序文において、彼の時代の学校教育においても支配的であったアリストテレス的な学問論、すなわち類を異にする諸学問は相互に比較

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    R2M 2015/11/20
  • 多くの人にとって、哲学が「アホらしい」理由

    ここらで、「哲学は~でないか?」というテーマを終えて、そもそも「哲学とは何であるか?」を語ってみましょう。哲学に相当長く首を突っ込んでいる輩なら、世間で言われるように「真理の追究」(あるいは「真・善・美」の追究)と答えてみても、何か嘘くさいと感ずることでしょう。 なぜなら、「真理の追究」と答えて済ましていられるのは、「真理」という言葉に疑問を抱いていないからであって、この言葉自体に疑問を抱くと、たちまちこう答えてもまだ何も答えていないことに気づくからです。 哲学は「真理の追究」なのか? たしかに、「真理」を国語辞典で調べれば、あるいは調べてみなくても、日常的にほぼその意味を知っている。しかし、哲学は、まさにその日常的使い方に基づきながらも、それを彫琢し、変形し、さらに思いもかけないほど別のものにすることすらあります。 いいでしょうか? 「哲学とは何であるか?」と問うて「真理の追究」と答えた

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    R2M 2015/09/04
  • デリダ『歓待について』 その1 - Arisanのノート

    歓待について―パリのゼミナールの記録 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,広瀬浩司出版社/メーカー: 産業図書発売日: 1999/12メディア: 単行購入: 2人 クリック: 36回この商品を含むブログ (11件) を見るデリダが「歓待」というテーマについて、繰り返して語っているのには、もちろんいくつかの具体的な事情が背景にあると思う。 そのひとつは、言うまでもなく、現在のヨーロッパ社会における移民や難民の受け入れ、という問題だ。自身が一種の移民でもあるデリダが、一人の知識人として、この問題に関心を示さないはずはない。 二つめは、たとえばイタリアのような国では*1、政治的な犯罪歴のある者を自宅に客として招いただけで罪に問われうるという法律が、今でも生きている。だから、ヨーロッパの左派的な知識人にとっては、「歓待」、特にデリダの言う「絶対的な歓待」というテーマは非常に差

    デリダ『歓待について』 その1 - Arisanのノート
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    R2M 2008/12/15
  • デリダ『歓待について』 その2 - Arisanのノート

    歓待について―パリのゼミナールの記録 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,広瀬浩司出版社/メーカー: 産業図書発売日: 1999/12メディア: 単行購入: 2人 クリック: 36回この商品を含むブログ (11件) を見る 前回も書いたように、このに収められたデリダの議論で、ぼくがもっとも注目するのは、彼が「歓待」を「欲望」の問題として、家族的な共同体における権力というテーマと重ねて考えている点だ。 「家族的な」という言葉の意味は、後で出てくる「父的でファロス=ロゴス中心主義的な婚姻のモデル」というデリダの表現に重なり、オイディプスとヘーゲルの思想が、とりあえずそれを代表するだろう。それはどこかの地域の歴史や現在の社会のなかというより、われわれの内部にあって今われわれを呪縛している共同性のモデル、ということだろうと思う。 ぼくにはこれは、非常に今日的な問題に思える。

    デリダ『歓待について』 その2 - Arisanのノート
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    R2M 2008/12/15
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