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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (6)

  • ララビアータ:スピノザとライプニッツ - livedoor Blog(ブログ)

    マシュー・スチュアートの『宮廷人と異端者』(書肆心水)を読んだ。スピノザとライプニッツ両哲学に興味がある人にとっては、見逃せないである。両哲学者の書簡を含むテクストはもちろん、その周辺の人々の資料にも目くばせが行き届いた興味深い一冊。著者は哲学者たちの理論や人間性の解釈にまで立ち入った上で、彼らの複雑な影響関係について独創的な解釈を打ち出している。 1676年11月ライプニッツはハーグにスピノザを訪ねているが、このときの対談は、通常言われているよりも濃密で長時間(少なくとも数日間)にわたるものであったらしい(p−251)。ライプニッツには、既にスピノザの説を受け入れる準備が整っていたのだが、このときの対談を境にして、ライプニッツは次第にスピノザから距離を取り始め、やがてまったく敵対的なものと見なしてゆく。これを著者は、思想史的ドラマとしてのみならず人間ドラマとして描き尽くそうとしている。

    RanTairyu
    RanTairyu 2011/11/29
  • ララビアータ:大澤真幸・宮台真司両氏の「正義論」 - livedoor Blog(ブログ)

    大澤真幸・宮台真司両氏による『「正義」について論じます』を興味深く読んだ。共感するところも多く、啓発される点もたくさんある読みごたえのある一冊に仕上がっている。さすがに当代の社会学を代表する俊秀だけあると敬服する次第。 ただ、いくらか気にかかる疑問点が残ったので、それについてメモしておこう。 宮台氏は「ミメーシス」(感染的模倣)という概念を練り直して、現代に生かそうとしている。なかなか興味深い試みと言えよう。「心底すごい人思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、はじめて理屈でなく気持ちが動く」(p−80)というものである。 宮台氏のミメーシスは、「父親のようになりたい」という模倣(象徴的同一化)と「兄弟のようになりたい」という模倣(想像的同一化)とのいずれに近いのであろうか? 後者は、双対的ライヴァル関係、相互模倣関係からのっぴきならぬ敵対的関係の袋小路

    RanTairyu
    RanTairyu 2010/12/29
  • ララビアータ:ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』 - livedoor Blog(ブログ)

    久しぶりにベンヤミンを読み返した。『歴史哲学テーゼ』は以前にも何度も読んだことがあったが、難解でいまひとつピンとこない所が多かった。今回、意外に腑に落ちるものだということが理解できたので、その点をノートしておこう。 まず、有名なチェス・ロボットを陰で動かしている小人の話。それが神学だという。これが、これまでよく理解できていなかった。それは、「神学」を何かエルンスト・ブロッホの神学のようなものと考えていたからである。ブロッホが革命的神学に求めるものは、せいぜいのところノスタルジーにすぎない。だからブロッホが取り上げている対象は、過去の神学的事象、たとえばトマス・ミュンツァーなどである。 しかしベンヤミンの神学は、もっとアクテュアルなものであり、現実に働く力である。ベンヤミンが研究対象に据えるのは、神学ではなく、はるかに世俗的なもの、パリの風俗とか、子供の遊びとか、映画ファッションなどである

    RanTairyu
    RanTairyu 2010/12/17
  • ララビアータ:東京裁判

    日暮吉延氏の近著『東京裁判』(講談社現代新書)に対する書評を書いた。興味のある方は今週の『週刊文春』を御覧いただきたい。限られた字数(12×65)で残念ながら十分に論じられなかった点について、少し書き加えておきたい。 書評でも書いたことだが、日暮氏は、とかく激しい政治的争点になりがちな東京裁判という問題を論じるにあたって、不毛なイデオロギー対立を避けて、事実に即した冷静な記述を目指している。 「文明の裁き」と「勝者の裁き」という一見矛盾した二つの論理をつなぐ鍵は何か?…著者はその結節点は「安全保障」であり、東京裁判は連合国と日の双方にとって「国際政治における安全保障政策」だったと論じてきた。(p-39)  第一次大戦の戦後処理は、ドイツの体制に対する介入は避けた一方、懲罰的で復讐的な賠償金が課せられ、ヨーロッパの秩序構想の中にうまくドイツを取り込むことが出来なかった。ドイツを含む世

  • ララビアータ:選民(その1) - livedoor Blog(ブログ)

    内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』の後半を読む。『文学界』連載中少し前半部分を読んでいたものだが、その問題意識と方法論にいささか疑問を感じて、読み進むのをためらっていた。 氏の論述は多彩で、よく言えば光彩陸離たるものであるが、極めて深遠な洞察もあれば、いささか思いつきで筆を走らせたところもある、いわばまだら模様と言える興味深い作品に仕上がっている。例えば、反ユダヤ主義者はユダヤ人に魅せられている、その愛を強化するために迫害に及ぶのだ、といった主張。確かにそのような例もあるかもしれないが、それをもって反ユダヤ主義の質とか一般現象と主張するにはやや無理があろう。一般に、強い憎悪には敵対者へのアンビヴァレントな感情が付きまとう事が多い、ということはあるかもしれない。敵対性が、しばしば相似性、鏡像的分身関係に基づくこともよく知られている。しかしそのような心理の一般論をユダヤ人問題に「適用」する事

    RanTairyu
    RanTairyu 2006/10/07
  • ララビアータ:過ぎ越し――佐藤優『自壊する帝国』について - livedoor Blog(ブログ)

    このについては、既に亀山郁夫氏が『文学界』8月号で取り上げている。書の稀有の魅力と美点については、亀山氏の意見にほぼ同意できる。その点をここでは繰り返すことは避けて、むしろいくつかの批判的考察を付け加えたい。 ここで強調しなければならないのは、我々の批判は、佐藤氏のの魅力と力を構成する点と不可分であるということである。 亀山氏は、旧ソ連の様々に異なる立場の人々が、佐藤氏に対して次々に胸襟を開き、貴重な情報を与えるのに驚嘆しながら、「それは、何と言っても、自己保身を求めないまっとうな政治家の前では、人並み以上に膝をおる誠実さが「マサル」自身に備わっていたからだ。まさに「人間力」。」と述べている。 私には、この点は「人間力」だけでは説明がつかないように思われる。むしろ、氏の神学的素養が問題なのではないだろうか?モスクワで、氏が反体制派や異端派の知識人群に迎え入れられるきっかけが、モスクワ

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