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2016年9月29日のブックマーク (2件)

  • 漫画や小説における「日常との線引き」と「親がいないという設定」について: 不倒城

    いつだったか、「ライトノベルの主人公に親がいない設定ばっかなのは何で?」というような話題を目にした。 検索したらいくつかそれらしいページが出てきたが、どうもよくある話題のようで、逆にどれがソースだったか思い出せない。 先に断っておくが、私はラノベについて大して詳しくないので、実際に親がいない設定の作品が多いのかどうか、正直よく分からない。聞いている範囲では多そうな気もするが、統計でも取らないと確言は出来ないだろう。 ただ、ラノベに限らず、たとえば一昔前の少年漫画なんかでは、主人公の両親、ないし片親がいない、または殆ど作品中で描写されない、というのはよくある設定だったように思う。最近のジャンプなんかは若干傾向が違うかも知れないが、それは一旦置く。 で、単純に、「ライトノベルの主人公に親がいない設定ばっかなのは何で?」という疑問だけについて、私が最初に思った理由は、「読者の日常との線引きをする

    Ri-fie
    Ri-fie 2016/09/29
    「単純に、キャラクター一人を描写する手間・リソースが浮く」ストーリーに親が深く絡むことは少ない(どころか、絡ませるとノイズになる)ので、確かにこれが理由のほとんどだろう。
  • 落語を独りで演じる理由とあたま山 - あざなえるなわのごとし

    zasshi.news.yahoo.co.jp 落語を複数人で演じるとなると、こういう人件費だとか、演者間、あるいは演者と脚の作り手との間のコミュニケーションのコストが増えるのである。 つまり、落語家とは監督と脚と主演を全て兼ねた一人クリエイターなのである。このうち一部を外注していくと、それに伴って種々のコストが増えてくるのは当然である。手間も増えるわけだ。 (中略) 結局、落語というのは、作り手の手間を抑えてサボるための仕組みに過ぎないのではないか、と筆者には思えてならない。 この弁護士さん、ある界隈ではお馴染みの方。 毎度毎度お笑いの批判がお得意のようでその割に理論武装が足りませんが、社会は肩書きですので残念ながら原稿依頼が来るようにできてるんですから、ネットメディアの質は痴れたものでして。 【スポンサーリンク】 漫才と落語 落語は座布団に座り、一人で全ての役を演じる。さらに言えば

    落語を独りで演じる理由とあたま山 - あざなえるなわのごとし
    Ri-fie
    Ri-fie 2016/09/29