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theory&thoughtとreligionsに関するRy0TAのブックマーク (2)

  • 『群青』 Blog版

    『宗教と社会』 第15号 (2009.06.06発行) 「キリスト教における当事者運動の可能性   ――同性愛(者)嫌悪への対抗言説の構築に向けて」  (107−117頁) 執筆  「宗教と社会」学会の学会誌(査読付)。 「キリスト教は同性愛(者)を受け入れられるか」という問いの設定に対する疑義を出発点に、日における同性愛者のキリスト教系の当事者運動について考察。とりあえず、この手のものが(ほとんど)ないために投稿してみたが*1、紙幅の都合で大半が「紹介」記事で終わってしまっていることがもっとも大きな反省点。 まだまだ続く(予定)。…というか、”そもそもなぜ「キリスト教」にこだわるのか”という、ここのところ、研究会関連でいただいている根源的な問いをも、自分のなかでほり下げていく必要がありつつ、なのだけれど。 そもそも、昨年の学会報告の後*2、神学やっている若手の人たちと話をしていて、かみ

    Ry0TA
    Ry0TA 2009/06/15
    堀江有里 「キリスト教における当事者運動の可能性 ――同性愛(者)嫌悪への対抗言説の構築に向けて」『宗教と社会』第15号(2009.06.06)pp.107-117.
  • 『群青』 Blog版

    上村静、2008、『宗教の倒錯 ――ユダヤ教・イエス・キリスト教』 岩波書店。  なんで「宗教」なのか。なんで「キリスト教」なのか。――ここ数回の研究会で、自分のやっていることにどうしても納得のいく説明ができないことの歯がゆさ。まあ、何度も似たようなことを聞かされている人たちの身を考えると、“ぐぉめんなさいっ”と言うしかないのだけれど、「キリスト教」(の、歴史の負の側面)にこだわって、「キリスト教」にとっかかりを保ちながらも、「キリスト教」を批判的に考えていく、という営為は、「キリスト教」関係者にすら、不可解なものであるのだろうけれど*1、「キリスト教」に関係のない人たちにとっては、ますます不可解であり、場合によっては、不愉快なのかもしれない、と思ったりもする。爆。                 * * * * * しばらく前に読み返してみた。「上村のあにぃ*2」の。 ユダヤ学・聖書

    Ry0TA
    Ry0TA 2009/05/28
    上村静、2008、『宗教の倒錯 ――ユダヤ教・イエス・キリスト教』/"〈宗教は人を幸せにするためにあるはずなのに、なにゆえその同じ宗教が宗教の名のもとに平然と人を殺してしまうのか?〉"
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