日常と文章に関するa-knowのブックマーク (2)

  • 継続の報酬 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

    自分の記事を見返して、「これ、ホントに俺の記事?」って思うことがあるんですよ。別に「タケルンバ」って人格は分業システムでも何でもないので、うちにある記事は紛れもなく俺が書いたはずの記事なんだけど、書いた人が見ても不思議な気分になることがある。 何かが変化してるんだろうけども、正直わからない。 気分とか環境とか、あるいは内面なんかも変わってるのかもしれん。当時は気になってたものが、今は気にならないとか。逆に当時は気にならなくても、最近はメチャメチャ気になるものがあるとか。あらゆる出来事とかを見る「俺フィルター」が違うから、見える景色も違う。 自分が成長した分、「青くせーこと書いてるなー」と振りかえれる面もあれば、逆に現状は退化して「おお、新鮮な視点だなー。この考え方はもうできんなー」ってものもある。良かれ悪かれ変わるってのは何かを手に入れ、何かを失うことなわけで、成長したなーと思って上から

    継続の報酬 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所
    a-know
    a-know 2009/08/03
    そういうこと、確かにある。だからこそ、書き続ける部分はあるのかも。
  • すきな通り道 - 空中キャンプ

    子どものころから、すきな通り道ときらいな通り道というのがあって、ふだんからなるべくすきな道を歩くようにしていた。たとえば小学校にいくときは、朝は集団登校をしなくてはいけないので、不服ながらきらいな道を通るが、帰りはできるだけすきな道で帰る。だから登校と下校で歩く道がちがう。 しかし自分でも、どういう基準である道をすきになったり、べつの道をきらいになったりするのかがよくわからない。緑が多いからいいとか、うるさい道だからいやであるとか、そういった明確な理由ではないのだ。むしろ「ここの角で曲がっちゃうのはなんかちがう」とか「ここをまっすぐ進むとすっきりしない」、もしくは「雨が降ってるから今日はこっちの道にしたい」といったあいまいな感覚なのである。 しかし、それはたんに言葉として記述できないというだけで、判断そのものはきわめて一貫しており、かりに子どものころのわたしを現代に連れてきて、今のわたしが

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