2012年6月29日のブックマーク (5件)

  • MIYADAI.com宮台・東対談 動物化するポストモダン

    【東】それは別の視点で言えば、人文科学的な言説が今後必要かどうかっていう問題ですね。必要かどうかは難しい問題ですが、サステナブルかどうかといえば、結果は見えているような気がする。人文科学は、これからも凋落の一途をたどるんじゃないかな。私たちの社会は、人文科学的な質論なしで動くようにデザインされ始めている。というか、それしかないんですよ。 【宮台】その点について、東さんのを読んで最後に残る困惑がある。つまり動物でいいんじゃないかという思いと、いや動物でいいのかなという思いの狭間に突き落とされるんですね。確かに質論はいらないというのは、事実的水準でテロリズムを抑止するための智恵です。でも智恵は学問とは違う。単なるテクネーで、ピアノの弾き方と同じ水準です。 【東】でも学問と智恵とどちらが重要なのかは難しい。別の観点を導入しますとね、僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです

  • アブラブログ

    あなたたちは、やめようと思えばやめられることを、なぜそんなに毎日毎日続けられるのだろう。 あなたたちは、何もする気がないときにも、なぜ次の朝、疲れ顔で出かけられるのだろう。 あなたたちは、なぜ自分は自分をコントロールできると思えるのだろう。 殺してやるから、殺しにおいでよ。 世界を引き裂いてあげる。

  • なぜ認知科学は「リアル」なのか? スラヴォイ・ジジェク「ジジェク自身によるジジェク」 <収束するポストモダン その4> - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「ジジェク自身によるジジェク」 スラヴォイ・ジジェク「ジジェク自身によるジジェク」(2005/2)ISBN:4309243312。その題名のようにインタビュー形式でジジェク思想のダイジェスト版であり、ラカン思想をもとに、政治、社会、文化、サブカルまでを軽快に?語られ、なかなかおもしろいものになっている。しかしラカンの主体像はすでに古いモノになっているとも言われる。ポストモダンにおいて、人々に共有された「正しさ」を支えていた「象徴界」が不安定になり、もはや欲望の方程式は時代遅れだ、と言うことである。 「認知科学的な私」 現在の主体像を支えているのが、認知科学ではないだろうか。生物としての私、遺伝子としての私、脳としての私など、「認知科学的な私」が、TV番組であり、であり、「利己的遺伝子」から、「馬鹿の壁」、クオリアなど、その手のものが巷にあふれている。そして、なかなかおもしろい。 科学的言

    なぜ認知科学は「リアル」なのか? スラヴォイ・ジジェク「ジジェク自身によるジジェク」 <収束するポストモダン その4> - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ロラン・バルトと蓮實重彦の「快感原則の彼岸」 : Toward the Sea

    《快楽/悦楽。用語はまだ確定していない。私も間違え、混乱する。》――バルトはそう語る(『テクストの快楽』)。快楽plaisir/悦楽jouissance。...《快楽/悦楽。用語はまだ確定していない。私も間違え、混乱する。》――バルトはそう語る(『テクストの快楽』)。 快楽plaisir/悦楽jouissance。後者は、ラカン用語としては、「享楽」と訳されている。 そして”jouissance is ‘the path towards death” (Lacan S17)であった。 ※アラン・シェリダン訳Ecritsの序文(セミネールXI英訳にも収録)より。「享楽 juissance」 英語にはこの語を訳すのにぴったりの言葉はない。「楽しむこと enjoyment」は、「享楽 juissance」にも含まれる、権利を享受したり所有物などを享有する〔つまり、権利や所有物に恵まれていること〕