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歴史とトルコに関するamanoiwatoのブックマーク (3)

  • 親日トルコの歴史(オスマン帝国)を学ぼう!建国の父・アタテュルクに注目だ

    東洋と西洋が出会う国トルコ。 親日国家として我々日人には馴染み深い一方で、「その歴史は?」となるとほとんどの方があまり存じ上げない気がします。 1881年(明治十四年)3月12日は、”トルコ建国の父”と言われるムスタファ・ケマル・アタテュルクが誕生したとされる日。 稿では、トルコの歴史(オスマン帝国)とアタテュルクについて見てみていきたいと思います。 文明の交差点アナトリア半島アナトリア半島は別名小アジアともいい、四大文明には含まれていないながら、古くから文明が存在していた土地でした。 地図で見ると、日からは中国を突っ切ってひたすら西にいったところにあります。 緯度的には台湾あたりからまっすぐ西と言ったほうが正しいですかね。 地図か衛生写真を見ていただくとわかりやすいかと思いますが、ここは各文明の交差点ともいえる場所です。 南にはメソポタミア・エジプト。 東にはインドや中国。 北西に

    親日トルコの歴史(オスマン帝国)を学ぼう!建国の父・アタテュルクに注目だ
  • 世界の戦争・歴史ブログ イスタンブール誕生 ・ 新帝都の建設

    みなさんこんにちは。 1453年5月、オスマン帝国皇帝メフメト2世は十数万の大軍をもって、およそ1100年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを総攻撃し、1ヵ月半の死闘の末ついにこれを攻め落としました。これによって彼は、オスマン帝国歴代スルタンはおろか、歴史上誰も成し得た事のない千年の都の征服を成し遂げたのです。 しかし、その時コンスタンティノープル市内では、この都を千年の長きに亘って護り続けて来た三重のテオドシウス大城壁を破って突入したトルコ兵たちによる凄惨な略奪が行われていました。ヨーロッパやイスラム圏に限らず、古来敵に勝利した際の略奪は、勝った兵士たちに許された「特別ボーナス」の様なものであり、この戦いにおいてもそれが行われ、メフメト2世は配下の大軍に、3日間の略奪を許したのです。 市内になだれ込んだ10万を越えるオスマン軍は、最初は激しい殺戮を行いました。

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  • 青い目、神聖なヒョウ?4千年前の遺跡から彫像 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    中近東文化センター(東京都三鷹市)付属アナトリア考古学研究所が発掘調査しているトルコ中部のビュクリュカレ遺跡で今月上旬、水晶のような石に金や宝石で象眼を施し、ヒョウとみられる動物の頭部をかたどった彫像が出土した。 アッシリア商業植民地時代(紀元前20~前18世紀頃)のものとみられる。当時これだけ豪華で精巧な彫像は珍しく、アフガニスタン産の青い宝石「ラピスラズリ」を使うなど、交易の広がりを示す貴重な遺物となる。 彫像は長さ3センチ、幅2・2センチ、高さ1・6センチ。両目は縁を金で象眼し、片方は失われているが、直径3ミリのラピスラズリを埋め込んでいる。斑点39か所のうち、24か所に青いガラスの象眼が残り、首の下には青銅製の金具がついていた。

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