実はむしろ「これまでもリアリズムの観点からやりたかったんだけど、諸般の事情でやれなかった」演出なんだそうです。/批判には、なぜか朝鮮半島と絡めた妄想的なものまであるとか…
皇帝殺害?革命の組織?あるいは30年間の服役?…帝政打倒に命をかけた5人の女性革命家には、そのいずれもさしたる困難ではなかったが…。 90歳のロシア人のバーブシュカ(おばあさん)を想像してみてほしい。彼女はかわいらしくて、礼儀正しくて、手作りの美味しいパイをあなたが死にそうな量で食べさせてくれる。 そしてこのイメージに次の点を付け加えてみよう。非合法の社会主義政党を創設し、テロを企て、その生涯の3分の1を牢獄あるいは流刑先で過ごす――。 これで、エカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤをイメージできたことになるだろう。彼女はまた、「ロシア革命の祖母」の通称で知られる。 ブレシコ=ブレシコフスカヤは、貴族の家庭に生まれたが、帝国の抑圧的な社会制度からロシアの農民を解放したいと思うようになった。そして、30歳のときに農村に入り、農民たちに対し革命のプロパガンダを始めた。しかし農民たちは、お上に
旧HPにあった、歴史の中のTGをこちらに移しました…。 管理が難しいもので… 世界初のFTMトランスジェンダーか?! 男性として王位についたハトシェプスト (BC 1504-1482) ※この記事は1997年と1998年、つまり10年前ににかかれたものです。 2006年にミイラが発見されてから少し見解が違ってきていますので また書いてみたいですね。 以下。 (BC 1504-1482) ★はじめに 性同一性障害をもったものは、大半の人々の過ごすパターンの人生になじめないこと幼少時にわかるため、人生のモデルが無いことが多く、否定的感情で過ごしてしまうことが多い。 そんな彼等にとって先駆者の姿はなによりも励みになるものである。3500年前を生きたハトシェプストもその一人だ。女性の体に生まれながらつけひげまでつけて男装し、公式の場で活動していたという事実が私を魅了した。それも後継の男子がいなかっ
1929年10月の夕刻のこと、閉店直後のホフマン写真館に明るい色のトレンチコートを着て、つば広のフェルト帽をかぶり、おかしな口髭をはやした中年の紳士が入って来た。その紳士は部屋のかたすみの椅子に腰を降ろすなり、店の主人であるホフマン氏と小声で話をし始めた。店には女性の事務員が一人黙々と片付けものをしている。 やがてホフマン氏が背後から声をかけた。 「ちょっといいかね。こちらは店のお得意のヴォルフさんだ」口髭をはやした紳士はフェルトの帽子に手をやると軽く挨拶した。事務員の女性も軽く会釈をする。 「ヴォルフさん。こちらはブラウン嬢です。入ったばかりですが、なんでもよく気のつく子です」 ビールとソーセージが来てぽつぽつと会話が始まった。ブラウン嬢は目のやり場、ちょっとした仕種などから、この紳士が意外にはにかみ屋さんなのだと感じた。話は最近はやりのミュージカル映画のことだったが、やがて会話が芸
安永元年(1772年)12月5日、後に浄岸院(竹姫)と呼ばれる女性が亡くなりました。 「竹姫」というありふれた名前なので、院号で原稿を進めよう……と思ったのですが、経緯的にシャレにならない気がしてきたので本名にさせていただきます。 竹姫は清閑寺熙定(せいかんじひろさだ)という公家の娘として生まれました。 順当に行けばそのまま京都で一生を終えていたのでしょう。 しかし、父の従姉妹がときの将軍・徳川綱吉に嫁いでいたことで、運命が大きく変わります。 お手がついて側室になったものの、子供ができなかったその女性は、大奥での地位を少しでも安定させようと考え、竹姫を養女にしたいと申し入れてきたのです。 年齢的に綱吉のお相手は無理でも、次の将軍のお手が付けば……と考えたのでしょうか。 ※以下は徳川綱吉の考察記事となります
強い信念とたゆみない努力をもって社会に 18世紀後半のイギリスは、産業革命の時代を迎え、人々の暮らしは大きく変ろうとしていた。それまでのイギリス社会では、外に出て仕事をするのは男性の役割、女性は家庭のなかで、子どもを育て、家の中での勤めを果たすのが役割と考えられていたのでした。しかし、家庭を守ってきた女性たちも徐々にではありましたが、社会に進出してきていたのがまたこの時代でした。 そんななかでも家柄がよければよいほど、女性が社会にでて働くというような意識革命にはついていけず、家の中の仕事にはげむか、人手があり、それもしなくてよいのなら身を飾って社交を楽しめばよいというのが大方の考えであったようでした。 そんなときにも強い信念とたゆみない努力をもって社会にで、力を発揮していった女性たちがいたのですが、その代表的な女性がフローレンス・ナイチンゲールでした。 彼女は自ら社会にでていっただけではな
涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze 教育館だより 157. 「従軍慰安婦問題」決着ーー泥さんが、右派のウソを元から断つ. shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_… 花魁の話をそう断じるのはちょっと微妙。通達そのものは事実だけど、そこは近代国家を急ぐ政府とジェンダー規範の大幅な転換があるので。 2014-09-03 21:28:23 涼風紫音/Protest the invasion of Russia @sionsuzukaze 花魁の話で補足しておくと、江戸時代の確かに男権的社会にあって、ある種の特権的立場もまた有していた側面がある。そして同時に江戸中期頃から急速に奥(大奥を含む)が批判の対象になり、幕末には「女性を政治の場から遠ざける」ことが公然と政治改革として語られることになった。 2014-09-
偉人伝に登場する女性のほとんどは、名家の出身で金持ちの白人女性で、精神的にも名誉男性だ、ということを斉藤美奈子さんが『紅一点論』で書いており、その代表としてナイチンゲールが挙げられていた。 エーレンライク&イングリシュ『魔女・産婆・看護婦 女性医療家の歴史』はもっと踏み込んでこの問題を明かしている。医療には、医学的治療と精神ケアを含めた看護の二側面が不可欠であり、中世までの医療家はその両面を担ってきた。しかしながら近代以降、医療は男に、看護は女にという役割分担が推進された。経済的にも社会的にも有利な医者という特権を男が独占することが目的だった。そのために「(女の仕事として)看護婦はすばらしい」というキャンペーンが行われ、女性の関心を誘導したのである。 「女は生まれつき人の世話をすることに向いている」という言説が語られ始めたのも19世紀以降で、これによって女たちは出産・育児・従属的なサービス
今年1月28日、神戸市の理化学研究所。無機質な設備が並ぶ場所での記者会見は、普段と全く違う華やかな雰囲気に包まれていた。 カメラの前にいるのは、小保方晴子氏(30)。アイラインを強調したフルメークに巻き髪、指にはゴールドの大きな指輪。いやが応でも目をひく、とそこにいた記者は感じた。 彼女が立ち上がると、ひざ上丈のフレアスカートがふわりと揺れ、フラッシュが一斉にたかれた。歴史に残る大発見をしたのは「若くてかわいらしい女性」だった――。 一連のSTAP細胞問題は、ワイドショーも連日取り上げ、みんなの関心の的になった。なぜあれほど人々をひきつけたのだろう。 STAP細胞の真偽のせいばかりではない。彼女個人に対する関心が非常に高かった。それは誰の心にも眠る「意識の底にあるもの」のためではないか。 人は時に性別や年齢、容姿といった属性だけで判断を左右してしまう。あるいは利用し、消費する。眠っていると
戦争になれば、貧乏くじを引くのは決まって弱い存在。特に当時、社会的な立場が弱かった女性は悲惨でした。centenarynews.comというサイトに掲載されていた2013年4月22日付けの記事では、当時のドイツ人社会の様子が次のように書かれています。 総力戦になって大量の男手が取られたのはドイツも同じでした。そして、こちらもこちらで海上封鎖による食料不足が、ジワジワと国内を蝕んでいきました。 未亡人200万人 1918年の時点で男性よりも女性の方が200万人も多い状態でした。しかも、その大半が未亡人。こうした女性は遺族恩給しか頼れず、しかも額が少なかったので悲惨でした。それまで、女性は家庭で家事や子育てするものとされていたのですが、第一次世界大戦で一変。仕方無しに働きに出ていく事になりました。 労働力不足を補う存在として戦力にはなっていましたが、待遇面では不利な環境に置かれていました。あく
ファーストガンダムにおける女性ファンの存在をめぐり、 数日前からツイッター界隈で喧しい状況が続いているようです。 すでにこのようなまとめが作られ、 1stガンダムに女性ファンは少なかったと主張する兵頭新児氏とそれに対する反応 - Togetterまとめ さらに批判された側が対抗するまとめも作成している状況。 『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件 - Togetterまとめ ガンダムの初期を支えたのがファンジン界隈の女性ファンというのは、 私も聞いたことがある話です。 とはいうものの私も世代が違う(私は再放送ガンプラ世代)ので、 当時の様子をリアルに体験しているわけでなく、あくまでも伝聞情報にすぎません。 それでは当事者である富野はこのことについてどのように語っていたのか。 手持ちの資料で調べ、これに言及している発言をリストアップしてみました
公開日: 2013/03/10 : 最終更新日:2014/01/29 カテゴリー:散歩・写真 タグ:gender, 中世, 仏教, 寺院, 文学, 日本史, 明治, 自然, 鎌倉 北鎌倉の梅の名所として知られる東慶寺です。東慶寺は正式には松岡山東慶総持禅寺といい、弘安八年(一二八五)、第八代執権北条時宗の妻覚山志道尼によって時宗の死後尼寺として開かれた。中世~近世の尼寺の多くがそうであったように、この東慶寺も尼寺として縁切の機能を有していた。江戸中期に書かれた同寺の由緒には開山の覚山志道尼が縁切寺としての法を定める旨、子の執権北条貞時に申し出たとあるとのことだが、史料的信憑性は薄いとされる。丁度、この寺が創建された弘安八年は幕府の重臣安達一族が内紛「霜月騒動」によって族滅した年で、覚山志道尼は安達一族出身であったことから、その安達一族の供養の目的で作られたとも考えられているが、確かなこと
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く