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ブックマーク / www.madisons.jp (37)

  • 殺人博物館〜エド・ゲイン

    エド・ゲインはおそらく映画史に最も影響を与えた人物だろう。彼がいなければ『サイコ』も『悪魔のいけにえ』も『羊たちの沈黙』も作られることはなかった。彼は現代アメリカの悪夢を象徴する存在であり、その無垢だが邪悪な魂は今日もなお生き続けているのである。 アメリカの中北部、ウィスコンシン州の中央に位置する広大な平原の真ん中に、プレインフィールドという人口600人の小さな町がある。「何もない平原」というその名の通り、当になんにもないところである。視界に映るのはどこまでも続くライ麦畑のみ。住民の娯楽は鹿狩りと、1杯のビールぐらいしかなかった。 1954年12月8日、この町で酒場を営むメアリー・ホーガンという体格のいい中年女性が行方不明になった。シーモア・レスターという農夫が一杯やろうと店に入ると、中には誰もいなかった。おかみを呼べども返事がない。カウンターの中を覗いて仰天した。床が血だまりになってい

  • 殺人博物館~DENNIS NILSEN

    トイレの排水管に何かが詰まっていたのである。私がこうして書くからには、詰まっていたのは人肉の筈だ。 1983年2月8日、ロンドン北部の閑静な住宅地のアパートに呼ばれた配管工は、あまりの臭いに悲鳴をあげた。ひええ。なんだよ、これ。こんなに臭いの初めてだよ。恐る恐る排水溝を懐中電灯で照らすと、どろっと腐敗した肉塊がヘドロのように浮いている。40ピースはあっただろうか。排水管からはでろでろとなにやらが滴り落ちている。 なんじゃこりゃあ。 あたしひとりでは無理です手に負えませんオエッ凄まじい臭いでありますゲエッと上司に連絡し、翌朝に人数を増やして対応することにした。 ところが、翌朝になると肉塊はきれいになくなっていた。どうやらアパートの誰かが夜中にこっそり処分したらしい。それでも底を浚ってみると、いくつかの肉片が残っていた。その一つは明らかに人間の指だった。 大至急で警察が呼ばれた。アパート住人の

    amanoiwato
    amanoiwato 2017/11/03
    なんだか座間9遺体事件と被る。
  • 悲惨な世界〜おかしな肉屋

    いつの時代にも怪奇デマ、恐怖デマというやつが流布する。近年では「口裂け女」や「人面犬」「走るばあさん」などが記憶に新しい。「ドラえもんの最終回」にはさすがの私もちょっと震えた。 こうした恐怖デマは戦時に多く発生する。その最も怖い例は、やはり「籠の中」であろう。 夫を戦場に送り出した新はその安否を気づかっていた。或る日、負傷した夫の帰還を告げる通知を受ける。命があればなにより。早くあの人の腕に抱かれたい。心待ちにしていると呼び鈴。すわ、夫の帰宅かと玄関に馳せる新。ガラリ戸を開けると、そこには大きな籠が置かれていた。あらなにかしらこれ。配給ものにしては大きすぎるしと夫人は籠を開ける。 中には手足を切断された夫が入っていた。 ところで、G・オルポートとL・ポストマンの歴史的名著『デマの心理学』には「籠の中」より一枚上手の恐怖デマが紹介されている。 或る小太りの中年婦人が買い物に歩いていると、

  • 殺人博物館〜ペリー・スミス&リチャード・ヒコック

    そもそもの発端はフロイド・ウェルズが同房のリチャード・ヒコック(通称ディック)に語った「ガセネタ」だった。2人はカンザス州立刑務所に服役していた。ウェルズ曰く、 「クラターさんの名前が出たのは、お互いの経歴を話し合っていた時でした。私はクラターさんの小麦農場で1年ほど働いていたことを話しました。ディックはクラターさんが金持ちかどうか知りたがりました。私は答えました。もちろん金持ちだよ。1週間の支払いだけでも1万ドルになるって聞いたことがある。すると彼はクラターさんのことを根掘り葉掘り訊いて来たんです。家族は何人いるのか。子供たちはいくつになるのか。その家はどこにあるのか。間取りはどうなのか。金庫は持っているのか。私は持っていると答えました。クラターさんの事務所の机の後ろに戸棚みたいな、金庫みたいな、何かそんなものがあったように思えたからです」 かくして「クラターの金庫には1万ドルが眠ってい

  • 殺人博物館〜ヴィンチェンツォ・ヴェルゼーニ

  • 殺人博物館〜ウィリアム・ハイレンズ

    ウィリアム・ハイレンズ William Heirens a.k.a. The Lipstick Killer (アメリカ) 元FBI特別捜査官のロバート・K・レスラーは著書『FBI心理分析官』の中でウィリアム・ハイレンズについてこのように述べている。 《残忍な殺人鬼がシカゴを徘徊しており、私はいたく興味をそそられた。1945年のことで、私は9歳だった。その年の夏に、既婚の中年婦人がアパートで殺されるという事件が起こり、それについての記事を新聞で読んでいた》 1945年6月5日、未亡人のジョセフィン・ロス(43)が殺害された。頭を殴打され、首から喉にかけて何度も刺されていた。ベッドの上は血の海だが、遺体は綺麗だ。どうやら犯人は遺体を浴室まで運んで洗ったらしい。そして、刺し傷に粘着テープを貼り、首に赤いスカートとストッキングを巻きつけて、全裸のまま放置した。性犯罪に思われたが、強姦の痕跡はなか

  • 殺人博物館〜ドロシア・プエンテ

    品のいい婆さんだったようである。ところが、その実体は連続殺人犯。彼女がそうなったのは、不幸な生い立ちゆえである。ウィリアム・ヴィカリー医師は法廷でこのように述べている。 「彼女が大金を必要としたのは、人から愛されたかったからなのです」 飲んだくれの両親にネグレクトされて育ったドロシアは、関心を惹くために嘘をつくことを憶えた。ところが、それでも構ってくれず、嘘は次第に突飛なものになっていった。担任教師が「カウンセリングを受けさせるべきだ」と保護者に忠告したほどだ。成人後も虚言癖は変わらなかった。 「イラン国王に求婚されたこともございますのよ。でも、彼の目的は私の財産でしたの。だから丁重にお断りしましたわ」 これは7つの遺体が埋められていた屋敷の大家であるリカルド・オードリカが聞いた話だが、お前、よくこんなの信じたな? 上沼恵美子ばりの大風呂敷じゃないか。 「もう大昔のことですけど、大戦中に欧

  • 殺人博物館〜セルマ・トッド事件

    ハリウッドの有名女優、セルマ・トッドの死は公式には事故死とされているが、殺人の可能性が濃厚である。不審な点が多く、その背後にはマフィアの影がちらついている。 セルマ・トッドは1905年7月29日、マサチューセッツ州ローレンスの政治家ジョン・ショー・トッドの娘として生まれた。1921年にミス・マサチュセッツに選ばれるも、芸能界に進む気などさらさらなく、教師になったというから大した才媛だ。 そんな彼女に転機が訪れる。父の友人の劇場支配人が「こんな別嬪さんを教師にしていたんじゃもったいない」と、パラマウントのプロデューサー、ジェシー・ラスキーに彼女の写真を送りつけたのだ。ラスキーはたちまち彼女に惚れ込んでしまった。頭もいいようだし、いい女優さんになるぞ! 「あなたには持って生まれた素質がある。是非ニューヨークにあるパラマウント俳優学校に入学したまえ」 しばらくは思案していたセルマだったが、父に背

  • 殺人博物館〜ジェイムス・ハンラッティ

  • 殺人博物館〜ジェイムス・ヒューバティ

    1984年7月18日水曜日午後4時、カリフォルニア州の国境の町サン・イシドロのマクドナルドは混み始めていた。店員や客のほとんどはヒスパニック系である。まだ22歳の女性店長ネヴァ・デニーズ・ケインは1ケ月前に結婚したばかりだった。ポリーナ・ロペスとマルガリータ・パディラ、エルサ・ボルボアの3人はいつもの笑顔で接客していた。 異変に最初に気づいたのは副店長のケニー・ヴィレガスだった。頭の禿げ上がった40代のその男は迷彩服に身を包んでいた。肩からはウージー・サブマシンガンを下げ、手にはショットガンが握られている。そんな映画の中でしか見たことがないような武装男が静かに店に入って来たのだ。そして、フロアを掃いていたジョン・アーノルドにおもむろに銃口を向けた。ヴィレガスは叫んだ。 「ジョン、撃たれるぞ!」 しかし、弾は出なかった。男は銃を下ろして、なにやらいじくり始めた。 なに、あの人? 悪い冗談ね。

  • 殺人博物館〜マルク・レピン

    語りベの立場から云わせて頂ければ、70年代から急増し始めた無差別大量殺人、いわゆる「スプリー・キラー」はつまらない。あらすじがいつも同じだからだ。ワンパターンなのだ。 大量殺人者の多くは、己れを「ひとかどの人物」だと信じている。しかし、その実際はちっぽけなゴミなのだ。そのギャップに彼は苦しみ、己れを認めない世間に毒づき、思い知らせてやろうと牙を剥くのだ。それは復讐であり、売名でもある。多くの命と引き換えに彼は歴史に名を残し、己れが「ひとかどの人物」であることを証明するのだ。だから、彼らについて語ることはそれこそ思う壷なので、出来ることならやめるべきだ。しかし、彼らの惨めな生涯を晒しものにすることで追随者を抑止する効果もあるかと思う。 これだけは云っておかなければならない。 殺人者をアイドル視してはならない。彼らはいずれも正視に耐えないほどに惨めな落伍者なのだ。マルク・レピン(25)が書き残

  • 殺人博物館〜ウィリアム・コーダー

  • 殺人博物館〜カール・フォン・コーゼル

    カール・フォン・コーゼル Carl von Cosel a.k.a. Carl Tanzler (アメリカ) カール・フォン・コーゼルこと名カール・テンツラーは、1877年2月8日にドイツのドレスデンで生まれた。1920年に結婚し、2人の娘を儲けている。1926年にはオランダ発キューバ経由でアメリカに入国、フロリダ州ザファーヒルズに定住した。ところが、翌年にはと娘を捨てて蒸発し、フロリダ半島の最南端、キーウェストのマリーン・ホスピタルでレントゲン技師としての職を得る。その際に用いた偽名が「カール・フォン・コーゼル」だったというわけだ。 と、ここまでの経緯は件とは殆ど関係がない。物語が始まるのはここからだ。なお、件は殺人事件ではない。初老の男と死体との愛の物語である。 それは1930年4月のことだった。コーゼルはマリーン・ホスピタルに通院するうら若き乙女に一目惚れする。エレナ・オヨス

  • 殺人博物館〜マイケル・ライアン

  • 殺人博物館〜ジョージ・スティニー

    14歳の黒人少年、ジョージ・スティニーは20世紀以降のアメリカにおける最年少の死刑囚である。その年齢はもちろん、事件発生から僅か81日で処刑されたことも問題視されている。自白の信憑性も疑わしい。とにかく、問題だらけの事件なのである。 1944年3月23日、 サウスカロライナ州ののどかな製材の町、アルコルで2人の白人少女が行方不明になった。ベティ・ジューン・ビニカー(11)と、その友達のメアリー・エマ・テムズ(8)である。2人はベティの自転車に乗って花を摘みに出掛けたまま、日が暮れても帰って来なかった。こんな時間になっても帰って来ないことは初めてだ。製材所の従業員たちを中心に捜索隊が組織され、付近一帯を探して回った。しかし、その晩は遂に見つけることは出来なかった。 一夜明けた午前7時30分頃、線路脇のぬかるみでいくつもの小さな足跡が見つかった。その後を辿って行くとハサミが落ちていた。それはベ

    amanoiwato
    amanoiwato 2012/01/31
    20世紀以降のアメリカにおける最年少の死刑囚
  • 殺人博物館〜ダイアン・ダウンズ

    ダイアン・ダウンズと子供たち 左からダニー、クリスティー、シェリル 犯行現場のオールド・モホーク・ロード 1983年5月19日木曜日、オレゴン州スプリングフィールドでの出来事である。午後10時30分頃、赤いニッサン・パルサーがマッケンジー=ウィラメット病院の救急搬入口前に乗りつけて、間断なくクラクションを鳴らし続けた。駆けつけた看護婦は訊ねた。 「どうしたんですか?」 運転手はジーンズ姿の金髪女性だった。彼女は叫んだ。 「子供たちが撃たれたの!」 車内には3人の子供が横たわっていた。 クリスティー・ダウンズ(8) シェリル・ダウンズ(7) ダニー・ダウンズ(3) シェリルは既に息をしていなかった。クリスティーとダニーはまだ脈があったが瀕死の重傷だ。一方、母親のダイアン・ダウンズ(27)はというと、左前腕を撃たれていたが、銃弾は貫通しており、命に別状はなかった。 いったい何があったのだろうか

  • 悲惨な世界〜バラのつぼみ

    映画『市民ケーン』は、新聞王ケーンが「バラのつぼみ」という謎の言葉を残して臨終するシーンで始まる。 それは一種の推理劇である。探偵役たるジャーナリストがこの言葉の謎を解明すべく、ケーンと共に生きた人々の回想を綴るうちに、まるでジグゾーパズルのように彼の生涯が浮き彫りになる。こうして完成されたパズル絵は、偉大な新聞王と呼ぶには程遠い孤独な独裁者としての姿だった。 『市民ケーン』はオーソン・ウェルズの天性の才能が開花した歴史的傑作である。しかし、この若干25歳の問題児は映画史上不朽の栄誉と共に、モデルとなった実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの逆鱗も買うことになる。妨害工作のために興行的には散々で、アカデミー賞授賞式でもブーイングの嵐だったという。つまりウェルズはその後50年にも及ぶ映画人生のスタートでいきなりつまずいたわけだ。映画会社はやがてこのトラブルメーカーを敬遠し始め、遂には

  • 殺人博物館〜エド・ケンパー

    アメリカン・バイオレンス』という映画がある。犯罪大国アメリカの実情を告発したドキュメンタリーで、テッド・バンディやビアンキ&ブオーノ、ジョン・ウェイン・ゲイシーといった実在の連続殺人犯が続々と紹介される。中でも特に強烈な印象を残すのが、このエド・ケンパーだ。獄中でインタビューに応じているのだ。彼はカメラの前で事件当時の眼鏡をかけて戯けてみせた。 「こんな男の車に乗る女がいたなんて信じられるかい?」 愛嬌がある男である。その所業とのギャップには戸惑いを覚えた。 エドモンド・エミール・ケンパー三世、通称エド・ケンパーは1948年12月18日、カリフォルニア州バーバンクに生まれた。父のエドモンド・ジュニアは身長2mを越す大男、母のクラーネルも180cmを越す大女だった。しかし、電気技師をしていた父は巨漢にもかかわらず気が弱く、いつもガミガミと口喧しい母に押され気味だった。 「あんたは大学を出て

  • イアン&マイラ

  • 殺人博物館〜レオポルド&ローブ

    云うまでもないだろうが、アルフレッド・ヒッチコックの異色作『ロープ』の元ネタになった事件である。 1924年5月22日、シカゴ郊外にある自然保護地域の排水溝で少年の全裸死体が発見された。頭部を強打されており、顔は酸で焼かれている。身元はすぐに判明した。14歳のボビー・フランクスである。実は前日の夜、彼を誘拐した旨の脅迫電話が自宅にかかってきていたのだ。そして、早朝に1万ドルの身代金を要求する手紙が速達で届いた。資産家であった父親は1万ドルを用意すると犯人からの電話を待った。その矢先に遺体が発見されたのである。 遺体のそばには眼鏡が落ちていた。犯人のものである可能性が高い。一見、何の変哲もない眼鏡かに思われたが、蝶番に特徴があった。シカゴでは1社でしか作られていないものだったのだ。この蝶番を使った同じフレームの眼鏡はこれまでに3つしか出ていなかった。そのうちの1つの持ち主がシカゴ大学の学生、