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内田樹と文学に関するamenotorifuneのブックマーク (4)

  • いつまで続くぬかるみぞ - 内田樹の研究室

    土曜日は指定校推薦入試。 指定校推薦の応募状況は堅調である。 ありがたいことである。 つねづね申し上げている通り、学のような規模の大学の場合には、120万人の高校生のうちの600人くらいが「行きたい」と行ってくれれば、それで教育活動を継続できる。それは志願者を「かき集める」必要がないということである。 必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。 よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根のところの動機がわからなくなってしまう。 うちでやっているようなことはうちでしかできません。 という自負が教育機関には絶対に必要である。 そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。 「

  • ノーベル文学賞の日 - 内田樹の研究室

    今日はいよいよノーベル文学賞の発表である。 村上春樹氏ははたして今年ノーベル文学賞を受賞するであろうか。 物理学賞、化学賞と立て続けに日人受賞者が輩出しているので、今年は「日イヤー」になるかも知れない。 というわけで、新聞社から「村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメント」の予定稿を求められる。 今回は S 新聞、K 新聞、Y 新聞の3紙から求められた。 S 新聞には過去2回書いているので「三度目の正直」。 私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。 加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。 だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。 批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられ

  • さよなら主体たち(内田樹の研究室)

    ロード二日目は日文学協会でのシンポジウム「言葉の力」。 会場が学士会館のお向かいの共立女子大。昼まで寝ていても間に合うというグッドロケーションである。 それでも打ち合わせ時間に遅刻(ありがちなことである)。 司会の須貝千里先生、丹藤博文先生、パネリストの馬場重行先生、横山信幸先生とお昼をべご挨拶。 シンポジウムは1時半から5時まで、なんと3時間半一勝負という長丁場である。 主題はどのようにして文学テクストのうちに棲まう「他者」をして語らしめるか、というたいへんにヘビーなものであった。 これはびっくり。 私の知らないうちに、日の文学研究は「主体が語る」という近代主義のパラダイムから「他者が語る」というポスト・モダンのパラダイムにしっかり移動中のようである。 しかし、「どのようにして他者をして語らしめるか」という問題の立て方にはいまだ「主体性」のシッポが覗いている。 「主体性なんか

  • http://anotherorphan.com/2006/08/post_361.html

    amenotorifune
    amenotorifune 2006/08/16
    春樹のファンでも、こんなふうに文体が沁みつくのは男子に多いんじゃないかな? 女子の場合はちがう気がする。大昔、春樹を初めて読んだときにはヴォネガットのコピーだと思ったっけ。
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