参考までに引用。 (「中国抗日戦争史」石島紀之著、青木書店、P184-185) 日本軍の大陸打通作戦も、解放区の局部的反攻に有利な条件をあたえた。支那駐屯軍*1は約半数の兵力を京漢作戦に投入したので、華北における日本軍の「治安」能力が大幅に低下したからである。共産党は、日本軍がおそれていた大規模な武力反攻こそおこなわなかったが、八路軍・民兵の活動は活発化し、日本軍の後方地域では、分屯隊への襲撃、交通線の破壊がひんぱんにおこなわれた。北支那方面軍第一二軍司令官内山英太郎が「作戦間従来ノ占拠地域ノ治安急激ニ悪化ス」とみとめたように(『一号作戦(1)』)、日本軍の支配地域は、各地で縮小しはじめた。 局部的反攻の状況を解放区ごとにみてみると、反攻がいちじるしく進展した山東省では、魯中・濱海・魯南・膠東・渤海の五軍区がすべて大きく発展し、晋察冀辺区も一九四〇年の状況を上まわる回復を示した。晋冀魯豫辺