太閤・豊臣秀吉が亡くなって16年後の慶長19(1614)年7月。世は関ヶ原を経て豊臣から徳川の時代に移って間もない頃のことだった。秀吉の子、秀頼は徳川家康のすすめもあって地震と火災で失った太閤発願の方広寺(ほうこうじ)の大仏と大仏殿の再建を果たす。だが、家康は自身も認めたはずの開眼供養(かいげんくよう)を中止するよう申し入れてきた。完成した梵鐘(ぼんしょう)の銘文の中に徳川家を呪う文字が見つかったのだという。そう、歴史上最も有名な“いちゃもん”事件。ついに豊臣家滅亡への秒読みは始まった。 「国家安康」の鐘 梵鐘は、今でも京都国立博物館の北隣に建つ方広寺の鐘楼にさがる。高さ4・2メートル、最大径2・8メートル、重量82・7トンという巨大なもので、京都・三条釜座(かまんざ)の釜師、名越三昌(なごしさんしょう)がこの年の4月16日に完成させている。 銘文を考えたのは、東福寺や南禅寺で長老となった
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く