チャイコフスキーの生い立ちから青年期まで 1840年5月7日、 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは ロシアのウラル地方ヴィトキンスクで 次男として生まれた。 父は鉱山技師で工場長の イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキー、 母はアレクサンドリアといい、 18歳年下のイリヤの二人目の妻であった。 母は鋭い感受性の持ち主であり、 その感受性はピョートルにも 受け継がれたといわれる。
この後、ブルックナーは 音楽理論の学識への研鑽はやまず、 自分より10歳も年下の オットー・キツラーから 楽式論、管弦楽法を学び始めたのである。 キツラーのもとでブルックナーは作曲の実践力を身につけていったが、同時にワーグナーの作品を学ぶことができたことものちに決定的な意味を持つことになった。キツラーはブルックナーとともに<タンホイザー>のスコアを研究し、そして1863年2月13日、キツラーの指揮でこの曲のリンツ初演がおこなわれた。ブルックナーはまさに時代の最先端を行く作品を深く学んだのである。 引用:根岸一美著「ブルックナー」P.30 このキツラーとの出会いと学びが、 ブルックナーの交響曲にとって 非常に影響を与えた出来事の一つだった。 レッスンを通じて知ってワーグナーの世界は、この人物の強力な個性とともに、ブルックナーに大きな影響を与え続けることになるが、交響曲の実際の創作にたいしてよ
今日はブラームスの性格と音楽における 霊感を探究してみたい。 J.S.バッハ、ベートーヴェンと並んで ドイツ音楽における三大Bとも称される ヨハネス・ブラームス。 1833年5月7日にハンブルグに生まれたが、 19世紀の音楽史において シューマンやクララ、ワーグナーなど 他の音楽家との関わり合いから、 後世への影響につながっていく様は 非常に興味深く、 また音楽史上でも系譜を継ぎつつ 高みを作った一人であると感じる。 以前書いたシューマンの記事でも紹介したが、 楽曲を発表せず実績がない時から ベートーヴェンの後継者と言われ、 プレッシャーと闘いながら 作品を生み出し続けたブラームスの 思想の部分について触れてみたい。 ブラームスの活躍を予言したシューマンとクララ ブラームスの父ヤーコプは コントラバス奏者で、 生活は貧しく下層階級の質素な アパートに住んでいた。 両親が副業もしながら家計を
今日はリヒャルト・ワーグナーの 総合芸術論について探究してみたい。 ワーグナーといえば 19世紀ロマン派オペラの頂点であり、 英雄的なゲルマン神話をモチーフにした楽曲の 壮大さに聴き惚れる方も多いだろう。 ワーグナーの人生も壮絶な人生であり、 自身のオペラを自分の 想定通りに演奏するために、 当時の王の支援を得て バイロイト祝祭のオペラ劇場を 建設してしまったり、 オペラの台本もすべて ワーグナー自身が書いていた ということからも音楽に限定しない 才能が伺える。 また、2度の結婚や恋愛の浮名を流したり、 革命運動に参加して亡命生活を送ったり、 反ユダヤの意志を持って ユダヤ系をこき下ろしたり、 音楽家に飽き足らず、 理想家肌の自信家であり 自分の信じる道を突き進んだ人 という印象が残る。 そしてもうひとつ特筆すべきは 音楽評論であり、 「芸術と革命」「未来の芸術作品」 「音楽とユダヤ性」「
今日は、シューマンについて探究してみたい。 ローベルト・シューマンは ベートーヴェン亡き後、 19世紀の音楽文化を推し進めるために 尽力した音楽家である。 新しい詩的音楽の時代を理念に掲げ、 作曲活動、そして評論活動を 通して音楽のなかにある真理を探究し、 音楽を単なる楽しみや娯楽でなく 芸術理念のもとに創作した 先駆者のひとりであると言ってよい。 1.シューマンの前半生 1810年6月8日、 プロイセン王国のツヴィッカウで 父アウグスト・シューマンと 母ヨハンナ・クリスティアーネ・シュナーベル の6番目の末っ子として ローベルト・シューマンは生まれた。 この2年後、プロイセン王国は ザクセン王国の一部となった。 父アウグスト・シューマンは 著述家を志望し、 22歳で書籍商を開業してヨハンナと結婚、 自宅に4千冊もの書物が置かれ、 さらに1807年に弟と共に 「シューマン兄弟」出版社を立ち
シューベルトのあだ名と性格 フランツ・ペーター・シューベルト (1797年~1828年)は、 ウィーン郊外のリヒテンタールに、 教区の教師である父フランツ・テオドールと 料理人だった母エリーザベト・フィッツの 第12子として生まれた。 シューベルトの幼少時のあだ名は フランツルと呼ばれ、 内気で内省的な子供であった。 シューベルトは小さい頃、父テオドールから 音楽の手ほどきを受け、 家族で器楽を演奏するのが 楽しみであった。 父は俸禄は少なかったが厳格で優しい人で、 兄フェルディナントと シューベルトは特に親しく、 父はチェロ、 長兄イグナーツが第2ヴァイオリン、 兄フェルディナントは第1ヴァイオリン、 シューベルトはヴィオラを弾いて 四重奏曲をいつも一緒に演奏していた。 この時のエピソードとして、 父のチェロの音が気になって仕方がなかった シューベルトは、おずおずと微笑しながら 「お父さ
ベートーヴェンの少年時代 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770年~1827年)に 神聖ローマ帝国ケルン大司教領(ドイツ)の ボンにおいて、 父ヨハンと母マリアの第2子として誕生した。 祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (同姓同名)がボンの宮廷楽長として 影響力があり、ベートーヴェン一家は 祖父の援助により生計を立てていた。 ベートーヴェンの父ヨハンも宮廷歌手 (テノール)だったが、 無類の酒好きで収入も途絶えがちで、 子供たちへの音楽教育はスパルタであり、 あのベートーヴェンが 音楽に嫌悪を覚えるほどだったそうだ。 そんなベートーヴェンに転機が訪れる。 ベートーヴェンの人生のなかで 最初の重要な師となる クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ との出会いである。 ボンの宮廷楽団の宮廷オルガニストであった ネーフェのルポタージュには11歳の ベートーヴェンについてこのよう
パパ・ハイドンの人生と性格 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは 1732年3月31日、オーストリアの ローラウという村で生まれた。 父マティアスは車大工で、 母マリアは料理女という家で、 第二子(長男)として、 愛称はゼッパールと呼ばれていた。 一日の仕事が終わると、ハイドン一家は 集まって父マティアス自慢の ハープを奏でながら、 民謡などを合唱するのが習慣だったという。 ハイドン家の子供のなかでも ヨーゼフ・ハイドン(ゼッパール) の歌は際立っており、 たまたま訪れた親族がハイドンの歌の才能に 目を付けたことから、 ハイドンの音楽人生は始まっていくのだった。 その楽才は、カルル・ゲオルク・ロイターに よって見いだされ、 ウィーンのステファン寺院の 合唱童児となるのである。 当時はカストラートという 少年時の声を保つために 去勢された男性歌手がおり、 ヨーゼフ・ハイドンもこの カストラートにな
神童モーツァルトと門外不出の名曲”ミゼレーレ” 言わずと知れた大作曲家、 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト は、1756年1月27日、 ザルツブルクで生を受けた。 当時は兄弟のなかで 幼少時に亡くなった者のほうが多く、 生き残ったのは姉のナンネルと モーツァルトの2人のみだった。 父親のレオポルトも音楽家であったが、 小さなモーツァルトの 音楽の才能を見抜くと、 とても驚き、そして喜び、 一大決心をして息子の教育に すべてを懸けることに決めた。 欧州への演奏旅行に同行させ、 モーツァルトの音楽の才能を伸ばす教育に 熱心に情熱を注いだのであった。 モーツァルトにはナンネルという姉がおり、 ナンネルも共に音楽を学び才能を発揮したが、 当時は女性がプロの音楽家に なる道はほとんどなく、 弟の成長と成功を支援し、 祈っていたのだった。 四歳からクラヴィーアのレッスンを始めた ヴォルフガング
マルティン・ルターは 言わずと知れた宗教改革者であり、 プロテスタントの創始者であり、 「聖書主義」「万人司祭主義」を 唱えた方として有名である。 当時のカトリック教会の免罪符を用いた 資金集めの方法に疑念を持ち、 「95か条の論題」をヴィッテンベルクの 教会の扉に貼ったところ、 その行為が当時のカトリックを 揺るがすほどの大事件となった。 自らの主張を貫いたルターは バチカンのローマ教皇から破門され、 消息を絶ち名主に匿われることになったのである。 マルティン・ルターは、 時の教会権力の全体主義的な傾向と、 教会建設のための資金集めとしての免罪符に、 神が許しを与えたもうのではなく、 人間が許しを与える免罪符を 人間心で発行するのは越権行為であると考え、 カトリック教会の堕落に対し、 異議を唱えたのであった。 賢公フリードリヒ3世にかくまわれていた間、 ルターは、ラテン語で書かれていた
ヘンデルの多彩な才能と音楽ビジネス ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、 1685年ドイツのプロイセン領ザーレ河畔の ハレに生まれた。 ヨハン・セバスティアン・バッハが 同じ1685年に ドイツのアイゼナハに生まれたので、 二人は同い年であり、代表的なバロック時代の 音楽を創り上げた人物であることは、 皆さんご存知の通りであろう。 当時の音楽界では、 バッハよりヘンデルのほうが 有名だったようで、 ヘンデルの人となりは 「とにかく豪快で、 やり手のビジネスマンのよう」 だったそうだ。 ここで特筆しておきたい点は、 ヘンデルという人物は、 音楽家であると同時に作曲家であり、 プロデューサーであり、 音楽ビジネスを立ち上げた人である ということだ。 バロックという時代に、自らのオラトリオで、 貴族の支援を受けずに 興行的に成功したという点で、 音楽興行ビジネスの先駆けであったと 言っても過言で
バッハの凄さ①平均律の普及に貢献 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (1685年 - 1750年)は、 バロック時代と言われる 絶対王政時代の時代に生まれた。 そして、バッハが生まれた家族は 代々の音楽家の家系であり、非常に多くの 音楽家を輩出し、オルガンも 一族から学んでいた。 バッハが考えていたのは、 キリスト教的神学観から来る世界観であり、 音楽というものは 神を讃えるためのものであると 固く信じて育った。 バロックという時代は、絶対王政として 王族・貴族の宮殿にて音楽を奏でるための曲を 作曲していた時代であったが、 同時にキリスト教の宗教音楽として、 プロテスタントの信仰を持ち、 魂を信じ、人の心を音楽で癒し、 神の創らせた世界を調和し、 美しきものとするために、 人間に神が音楽を与えたのだと 考えていたのである。 ルネサンス時代までは、純正律という音階で 教会音階が使われていたが、
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの天啓の音楽 西洋音楽史を真・善・美の視点で探究していく なかで、ギリシャ音楽の隆盛の後、 注目すべきは初期キリスト教の聖歌統一を 掲げたグレコリウス1世(在590~604) にちなんで名づけられた 「グレコリオ聖歌」が有名であるが、 その「グレコリオ聖歌」の普及に 力を尽くしたのがフランク王国のカール大帝 (シャルルマーニュ国王)と言われている。 文化の異なる広域のキリスト教圏国家を、 信仰と権威で治めるために、 宗教的儀式としての「グレコリオ聖歌」 という単旋律聖歌を統一して 広めることによってローマ教会の典礼を 普遍的なものとし、 宗教的権威を高めたのである。 この「グレコリオ聖歌」の単旋律聖歌の 流れのなかで、 宗教的にも音楽家としても 注目すべき女性が、 1098年に生まれた ヒルデガルト・フォン・ビンゲンである。 ドイツのビンゲンという土地の ヒル
H・G・ウェルズの予言『世界はこうなる』で新型コロナ的中 H・G・ウェルズは『タイムマシン』や 『宇宙戦争』などを書いたSF作家として 有名だが、SFのなかに未来社会を見通した テクノロジーや社会を描き、預言者的な資質も あると言われる方である。 そのH・G・ウェルズが 1933年に予言書的に書いた 『世界はこうなる』という本には、 2106年までの未来が描かれている。 この本のなかで、 1933年(昭和8年)に 「日本は中国、アメリカと戦争をし、最後には原爆が2発落とされて敗戦する」 ということを書いて、的中している。 そのほかの予言でも、驚異的な精度で的中している 恐ろしい予言書でもあるのだ。 2013年7月に発刊された 『H・G・ウェルズの未来社会透視リーディング』 では、まだ実現していない予言として、 「強力なウイルスが流行り、世界の人口が減る」 「第三次世界大戦、核戦争のようなも
本物の自信の見分け方ー自信と増上慢の違い 現在、私は教育関係にいるため、 学生との面談などで「もっと自信を持て」 と言っていることもよくあった。 そんな私も最近、少し自信を無くすことがあり、 「もっと自信を持て」と言われることもあり、 なぜ自分に自信が持てないのか、について 考えてみた。 普段は特に自分が自信がないとは思っておらず、 なぜ自信がないように見えるのか、 見た目や仕草、行動の問題を工夫したら 自信があるように見えるのか というようなことを考えたこともあった。 しかし、自信がないように見える理由について、 あるきっかけで一つの気づきがあったので 書いておきたい。 それは、「自分に自信がない」というのは、 「自分の能力を信じ切れていない」 ということに気づいたのだ。 この理由については後ほど探究するとして、 自信について論点を 紹介しつつ、考察していきたい。 自信と増上慢について、
1.指導者的愛とエゴのための自己実現の違い 思いと行い、結果は、 幸福の科学の教えでいうならば 『正心法語』の「解脱の言葉、仏説・八正道」 の第1「正見」に説かれている「因縁果報」、 原因があって縁起(きっかけ、プロセス)があって、 果実があって報いありという言葉でもある。 そして「善因善果、悪因悪果」でもあり、 善き種を播けばよい果実が実り、 悪い種を播けば悪しき果実が実ってしまう ということは、 「悪を去り、善を取れ」という 第6の正精進の教えにもつながる。 愛の観点から思いと行い、結果について考えてきたが、 善悪の観点から見るとどうだろうか。 『宇宙人による地球侵略はあるのか』に 次のように説かれている。 善悪の問題には難しいものがありますが、結局、軍事・政治的なものが絡んできた場合、最終的には、結果責任まで行きます。 したがって、動機責任と結果責任の両方をチェックしなければいけませ
1.思いと行いのウエイトの違いが表側と裏側を分ける みなさんは、普段「思い」と「行い」と「結果」、 どの部分を重視して生きておられるだろうか。 宗教などを学ばず、社会人として生きていると、 「行い」において法律に反する行動をせず、 どれだけ大きな「結果」すなわち「成果」を挙げるか、 しかも短期間で成果を出していく人が 仕事ができる人間と言われる。 また指導者層においても、 政治家や経営者は「結果責任」であるということを よく聴くし、どんなにいい人でも 「結果がすべて」、いい結果を出せなければ いいリーダーではない、という考え方が 常識的な考え方としてあると思う。 自分も長らく、そのような考え方を持って 生きてきた。 しかし、2021年は『秘密の法』の年として、 霊的世界のなかでの 表側と裏側の価値観の違いが明らかにされる年 でもあるが、 『観自在力』で改めて衝撃を受け、 今回のテーマを考え
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